私の人生、いつも音楽があった
第4回 音楽の力を信じて
湯川れい子
湯川れい子(ゆかわ・れいこ)
音楽評論家・作詞家
東京生まれ、1960年ジャズ評論家としてデビュー、作詞家としても活躍。
1972年ころより音楽療法について関心を深める。
NPO法人日本子守唄協会会長・日本音楽療法学会理事。
聞き手 西舘好子(にしだて・よしこ)
東京生まれ、劇団こまつ座・みなと座、リブ・フレッシュを設立。
日本子守唄協会理事長、遠野市文化顧問などを務め、子育て支援に資するために活動中。
http://www.komoriuta.jp
子供の多感な時に心を豊かにする音楽を
西舘 湯川さんと一緒に被災地へ行きましたでしょう。その時に、絶対歌わないといっていた人が、私たちが歌った後に続けて歌って、いつそれを覚えたんですかと聞きましたら、全然記憶にはないという。でも歌っちゃう。音楽はそういう力を持っているんですね。
湯川 そうですね。ただ「パーソナル・ソング」という映画に関連してちょっと問題だと思うのは、例えば今老人ホームにいらっしゃる七十代、八十代の方で、その人が子供のころから思春期の一番多感な時に、どういう音楽を聴いていただろうかということを調べてみると、これが日本の場合はないんですよ。アメリカの「パーソナル・ソング」に出てくるように豊かな音楽がない。
西舘 一番感受性の強い時の音楽、かつてはあったんじゃないでしょうか。
湯川 いいえ、それでも学校唱歌とか。
西舘 唱歌・童謡は入りませんか。
湯川 唱歌でも、それが初恋とか初デートの楽しい記憶と結び付いているわけじゃないんですね。
西舘 ということは、日本には本質的な音楽はなかった。
湯川 前におっしゃった盆踊りにはあったと思うの。ただ戦争中は盆踊りもなかった。
西舘 もう廃止ですからね。
湯川 アメリカでは本当にわくわくするような音楽、私の長兄に赤紙が来て招集されるころ、
「スリーピー・ラグーン」が大ヒットしていたわけですよね。ベニー・グッドマンもいたし、グレン・ミラーもいたし、フランク・シナトラも歌っていました。そういう歴史が、アメリカの場合は戦争中もあったんです。戦争中も、高校卒業の時にはプロムというダンスパーティーがあって、初めてデートしたとか、音楽が常に身辺にあった。黒人にはラグタイムとか教会音楽があったり。
西舘 どうでしょう、わらべ歌とか民謡とか、また例えば祭りがあって、日本の地域が持っている音ってありますね。そういうものが心に残っていることはないですか。
湯川 あると思います。ただ、個人差がすごく大きくて、例えばその人が山形にいたのか東京にいたのかで違うし、その音楽がどういう背景にあったかは全然違うので、一人一人の追究がすごく難しいんです。
西舘 心を豊かにするような音楽には、まだ到達していない。
湯川 できれば、本当に一番欲しいなと思うのは、幼稚園から高校三年生ぐらいまで。
西舘 一番感性の豊かな時ですね。
湯川 その時に、さまざまな音楽を選択できる環境を与えてほしいと思うんです。
新たな子守唄「うまれてきてくれてありがとう」を唄ってくれた歌手クミコさんと
子育ては音楽のあふれた家庭で
湯川 「パーソナル・ソング」でもそうなんですが、そういう子供の感性の豊かな時に、お父さんとお母さんが家で何を聴いていたかなんです。何を楽しそうに聴いていたか、お父さんとお母さんがダンスをしていたとか、お母さんがピアノを弾いていたとか。
西舘 それは今ますますなくなっていますね。家庭の中で男と女のつながり、お父さんとお母さんのつながりが稀薄になっています。とくにお母さんが働きに出ていると、家庭を、そういう心を育てる場所にしようとするのは難しいでしょう。
湯川 本当についこの間まで、お父さんたちはワーカホリックだったし、お父さんは外で飲んだり歌ったりしても、うちの中には音楽がなかった。結婚というものが、男女の単なる快楽的なセックスではなくて、やっぱり家庭というもの、一つの社会の単位としての結び付きを生むものだということが稀薄になってきました。
西舘 そうですね。そうすると、今の子供たちは本当に豊かな心にはなれない。
湯川 なれませんね。 「パーソナル・ソング」から見ても、やっぱり根っこは深いなと思います。だからもしかしたら、盆踊りって、すごく大事だったのかもしれない。
西舘 私は大事だと思いますね。地域もつながりも情感も、全部盆踊りや祭がもっている。家庭でもそれが生活に密着しているという点でも。
湯川 うちの場合は海軍の軍人でしたけど、父と母がすごく音楽が好きで、戦争が激しくなるまでは常に家庭の中に音楽があふれていました。今でもよく覚えていますけど、中秋の名月というとわざわざ広い廊下にお月見のお団子を飾って、ススキを飾って。
西舘 そこなんですよね、大事なのは。人が自然と同化できる。
湯川 父は端然と座って、月に向かって尺八を吹く、母はそれに合わせてお琴で。戦死した長兄とか姉が隣の部屋でピアノを、
「六段」とか「千鳥」とか、一緒にやっていましたものね。私はお茶碗を並べられて、これで好きな音を出しなさいと言われて、チンとか、チャカチャカとか、やっていましたものね。
西舘 それはそういう背景を持てば、いや応なく湯川さんのように育ちますよ。そこが今一番世の中に欠けてきちゃった。家にテレビの音はあっても、音楽がない。
湯川 家庭の崩壊ですね、大きいのは。家庭が崩壊していたら、親子の結び付きがなかったら、自分を愛するとか愛されるとかいう感覚が育たないわけじゃないですか。小さな子供とお母さんが一緒に歌うというような、時間と空間を共有することがなくなっちゃったんです。社会的にも、人と人との結び付きというのがなくなってきましたね。
日本音楽療法学会の理事長 日野原重明先生と副理事長の村井靖児先生と
わくわくして嬉しくなるような音楽
西舘 音楽の力というものを考えますと、例えば湯川さんがプレスリーやビートルズに出会った時、これだと思ったものがあるんじゃないでしょうか。それはすぐに察知なさったわけ?
湯川 はい。エルビス・プレスリーが出てきた時、実はアメリカではニュージャージーの知事さんなんかが、こんな下品な音楽を聴くとアメリカ社会は壊れると。だから、みんなエルビスのレコードを持ってきて、たたき割るなんていう運動をやったんです。
西舘 最初はどこも同じということ。
湯川 ええ。例えば、エド・サリバン・ショーで有名な芸能記者のエド・サリバンは、シナトラは喜んで自分の番組に出しても、エルビス・プレスリーは絶対出さないと言っていた。彼はアメリカのカトリックの協会の名誉会長などをしていましたので、まさかエルビスを出すなんていうことはあり得ないと思っている人たちもいたわけです。ところが、エルビスの人気がすごいことになって、視聴率競争には勝てなくて、結局、エルビスを出演させます。その時、彼の下半身の動きが非常に卑猥だというので、下半身を映すなと、バストアップだけしか映さないことになった。その結果は、考えられないような、四二%ぐらいのすごい視聴率です。
なぜエド・サリバンはエルビスを出したが
らなかったかというと、エルビスの持っている音楽性というのは実は黒人のブルースやリズム・アンド・ブルース、黒人の教会音楽というのが根強くあって、それを良識的な白人の茶の間に持ち込むことに拒絶反応があったということなんですね。本当に南部の、土地も持たないような小作人の、無教養な青年という位置づけでしたから。それがセクシーに歌って、女の子がきゃあきゃあ騒ぐことに、アメリカでも拒絶反応があった。一体、この拒絶反応というのは何なんだろうとじっと見ていると、要は理解できていないだけ。異文化に対する拒絶反応と焼きもちなんです。
西舘 焼きもちを焼いたのは、ほとんど男ということでしょう。
湯川 そうですね。ただ男も女も、あのセックスアピールに熱狂する。それは本能的なもので、本当にわくわくして、もっと嬉しくなっちゃって。
西舘 それは音楽の力と言えますか。
湯川 音楽だけじゃなくて、音楽というものを媒体にして声があって、ルックスがそこにあって、肉体ということですね。エルビスが立っているだけで、皆さんこんにちは、と言うだけで、きゃあと言う。
西舘 素敵でしたもの。それに、そのエルビス・プレスリーが非常に深い悩みを持っていましたね。
湯川 晩年ね。そのころにはボーカリストとしての魅力が出てきました。
西舘 だんだん白い衣裳を着るようになったそうですね。それは双子のお兄さんを弔いながら歌っていたと、そういうお話をうかがった時、魅力がもっと膨らみました。
神はエルビスに歌という使命を与えた
湯川 彼は南部のキリスト教信者でしたが、キリスト教をはみ出して、もっとスピリチュアルなもの、つまり宇宙とか生命の成り立ちとかいうものにまで興味を持った。だからチベット密教を勉強したり、仏教を勉強したり、いろいろしていたようですけれども、そんな中で、音楽的な素養も教養も何もない自分が、一夜にして大スターになってしまったということには、生涯悩んだようなんです。
西舘 そうでしたか。
湯川 生涯悩みながら、いろんなところに神というものを探したんですけど。彼のメンフィスの家の庭にメディテーション・ガーデンという、瞑想の庭というのを造りまして、そこでヨガとか瞑想とかをやっていた。するとある日、その瞑想の庭の、お母さまのために建てていたキリスト像に雷が落ちるんです。その時に天啓を受けたらしい。それはずっと、心の中で問い続けていたからだと思うんですけど、天啓を受けて、神はエルビスの声にエレキを与え給うた、と。
それは、牧師さんは言葉で神を伝えるけれ
ども、エルビスは音楽によって人を元気にする使命を与えられたのだから、生涯歌えと。お前は歌うことが使命だというメッセージを受け取ったらしいんです。彼はずっと稲妻の形のTCBと書いたペンダントをしていたんですけど、それは雷が落ちて、神様から受けた啓示だったそうです。
西舘 天才には啓示があるのかしら。
湯川 それは天才だけじゃなく、もしかしたら私たちだって、雷が通り過ぎると植物が生き生きして空気が澄むとか、何かそういうものを感じるじゃないですか。
西舘 湯川さんはそういうスピリチュアルな世界、興味をお持ちですものね。
湯川 はい。だって音楽は目に見えないんですもの。目に見えない音楽にどこがどう感動するかということには、ずっと興味がありました。今もあります。
音楽療法のお話で、スピリチュアルなもの
はすべて科学ですと言いましたね。それは例えば、オウムの信者たちが空中遊泳とか、幽体離脱だとかにびっくりして、特殊な能力だと思ってしまった。高等教育を受けた人たちが何であんなものに陥ったかというと、彼らは一生懸命受験勉強だけして体を動かさなかった人たちなんですね。小さい時から体を動かさなかったり、日常の中で体験できる小さなスピリチュアリティというのをまったく知らないで来てしまうと、それがとても不思議なことに思われるんでしょうね。
だけど、実は私たちだって何かずっと集中
してやっていると、瞑想もそうですけど、自分の意識が体から抜け出して、自分を上から見ているとか、ちょっとした超常現象が起きるんですね。音楽もそうなんです。その中で本当に陶酔しきって、完全にその音楽の中にいると、いきなり宇宙がえらく広くなってしまって、全部が俯瞰して見えてしまう。そういう体験はマラソンでも音楽でもしますから、別に不思議なことじゃないんだけど、受験勉強ばかりやっているとそれが分からない。だからあれは、尊師だから見せてくれたわけでもイエス・キリストだから見せてくれたわけでもなくて、そういう世界が実はあるんだということなんだと思っています。
〈完〉