多額の損失を出しても企業のように
責任が問われない宗教団体の認識の甘さ


宗教学者 島田裕巳


 曹洞宗の宗門大学である駒澤大学が、資産運用に失敗し、154億円もの巨額の損失を出したことがニュースになったのは、昨年の11月のことである。その損失を補填するため、大学はキャンパスを担保にして、銀行から融資を受けなければならなくなった。
 もっとも、資産運用で損失を出した大学は、駒澤だけではない。折しも、世界は100年に一度と言われる「金融危機」に見舞われており、駒澤大学はそれに直撃されたと解釈された。
 その点では、18歳人口の減少が続くなかで、大学が資産運用を行ったこと自体はいたしかたのないことで、金融危機の到来が予測できないものだっただけに、駒澤大学は不運だったと見ることもできる。
 しかし、一方で、曹洞宗は、多々良学園の問題を抱えている。こちらは、資産運用による損失ではなく、キャンパスの移転事業に、採算を無視して巨額を投入したことによるもので、駒澤大学問題とは性格を異にする。ただ、学校経営をめぐって、巨額の損失を出したことでは共通している。さらに、10年前には、東京グランドホテルの経営をめぐっても、曹洞宗は巨額の債務を負った。金のことをめぐって、これだけ多くの問題を抱えている既成仏教宗派は、今のところ、曹洞宗だけである。
 かねがね私は、宗教学者として、現代における宗教団体のあり方を研究対象とする者として、曹洞宗が抱える一連の問題に関心をもってきたが、今回、多々良学園問題をめぐって、2000年6月27日に作られた「曹洞宗宗議会調査特別委員会報告書(以下、調査報告書)」に目を通す機会にめぐまれた。そこには、多々良学園問題の経緯が詳しく述べられているが、一読し、私は驚愕せざるを得なかった。常識では考えられない事態が進行していたことが明らかにされているからである。
 報告書の冒頭には、一連の出来事の経緯がまとめられている。多々良学園では、校舎が老朽化し、しかも1999年の台風で大きな損傷を受けた。そこで、移転計画がもちあがり、地元の防府市と協力して、新天地に新校舎が建設された。ところが、学園の自己資金はわずか1億円しかなかったにもかかわらず、総事業費は85億円近くにものぼった。そのうち、曹洞宗が24億円を補助したものの、後は金融機関からの借入によって賄われた。しかも、借入金を返済するための資金計画は杜撰で、すぐに資金調達に行き詰まり、曹洞宗は127年の伝統を誇る学園を手離さざるを得なくなった。
 分不相応な借入をして、不動産を手離さざるを得なくなった点では、金融危機の引き金となったアメリカでのサブプライム問題と類似するが、アメリカでは、不動産を手離しさえすれば、借財はすべて帳消しになった。ところが、多々良問題では、業者が曹洞宗に損害賠償を求め、宗務庁のあるソートービルが仮差し押さえ命令を受けるという事態も起こり、現在、裁判は進行中である。判決は出ていないものの、曹洞宗にとって相当に不利な結果が出るのではないかというのが、一般の見方である。
 調査報告書に目を通してみると、正直、理解しがたい部分が少なくなかった。現在、日本では少子化が進行し、どこの学校も生徒や学生の確保に苦しんでいる。そんな状況のなかで、巨額の費用をかけて、新キャンパスを建設するには、余程綿密な計画を立ててことに当たらなければならないはずだ。ところが、計画は夢物語のようで、到底その通りにはいかないものにしか思えないのである。
 見様によっては、学園の側が、防府市や建設業者の思惑に安易に乗ってしまい、言いなりで計画を進めた結果、無謀な計画に莫大な費用を掛けてしまったかのようにも思える。その点では、学園の側は騙されたとも言えなくもない。
 しかし、少し考えてみるならば、それが無謀な計画で、破綻が必至なものであることはすぐに理解されるはずである。なおかつ、工費費用は、工事が進むにつれてふくらんでいった。そして、『週刊文春』2005年10月6日号が報じたように、業者の選定にも問題があった可能性がある。
 曹洞宗は、業者からの損害賠償の訴訟に対して、対決姿勢を鮮明にしてきたが、計画は学園の理事会によって承認されてきたもので、しかも、調査報告書によれば、理事会はオブザーバーであるはずの宗門の人間がリードし、学園として主体性、独立性をもっていなかったとされている。その理事会で、宗門が到底実現されそうにない寄付にもとづいた資金計画を了承したというのだから、曹洞宗の宗門がその責任を逃れることはほとんど不可能と言っていいだろう。
 もし、学園の理事会が、しっかりと機能していたのであれば、無謀で杜撰な新キャンパスへの移転計画が実行に移されることはなかったであろう。実際、学園の教職員組合は、移転計画がいかに危険なものであるか警告を発していた。理事会は、それを無視して、計画を推進したが、非常勤で生活がかかっていない理事長と、常勤で生活がかかっている教職員とでは、問題の受け止め方がまったく違ったということかもしれない。
 多々良学園の問題が表面化してから、曹洞宗の宗派のなかでは、さまざまな議論が起こり、どこに本当の問題があるのかを指摘する声も生まれているようだ。その点については、本誌において、多様な角度から報道されている。それを見ると、宗門の内部での派閥や権力争い、宗議会の構成の問題、宗務庁のあり方、さらには、宗門全体の将来ビジョンや、既成仏教教団としての方向性など、さまざまな事柄が議論の対象として持ち出されていることがわかる。
 しかし、問題を突き詰めていくと、日本における仏教宗派のあり方そのものが問われているように思えてくる。その点についての議論を展開していかない限り、この問題が本当に解決されることはないであろう。
 仏教の場合、出家と在家とが区別されている。僧侶は出家であり、一般の檀家は在家である。仏教では、日本に限らず、こうした形態がとられてきたことから、私たちは、それが宗教教団の当たり前のあり方だと考えてしまうが、そもそも出家という制度が存在するのは、仏教とキリスト教のカトリック、あるいは東方教会だけである。キリスト教のプロテスタントやイスラム教など、他の宗教においては、出家という制度そのものが存在しない。
 出家するには、俗世から離れなければならず、出家した人間は、基本的に自分たちの生活を支えるために、職業を持つことはない。生活は、布施という在家からの寄進によって賄われる。日本の僧侶は、妻帯が一般化しているものの、布施に生活を頼るという点は変わっていない。
 宗派の金、宗門の金と言った場合にも、そのもとをたどれば、在家である檀家からの布施によるものである。檀家が布施するのは、一般に葬儀や法事、法要の際においてだが、葬儀の執行は本来経済的な行為ではないし、僧侶の仕事ではない。
 したがって、宗派、宗門は、自分たちが稼ぎ出したわけではない金を所持していることになる。それを、多々良学園の建設につぎ込んだことになるし、学園の側は、それを勝手にあてにして資金計画を立てたことになる。
 人間、自分が稼ぎ出した金であれば、あるいは稼ぎ出さなければならない金であれば、その使途に対して厳しい態度で臨む。たとえ一円でも無駄に使われることがないよう、しっかりと計画を立て、出した金が適正に使われたかを監視する。
 ところが、自分の稼ぎ出した金でなければ、なかなかそうした意識が働かない。多々良学園の理事長以下もそうだが、曹洞宗の宗門も、まっとうに資金計画の内容を考えなかったのは、そこに費やされる金が、自分たちが稼ぎ出したものではなかったからではないだろうか。
 宗門には、金が集まる仕組みができあがっている。檀家は寺に布施を行い、その布施のうち、一定の割合が「宗費」と呼ばれる上納金として宗門におさめられる。宗門に集まった金は、宗教活動や、それと関連した教育事業に費やされる。役所による税金の無駄遣いがつねに問題にされるが、宗門の場合にも、それとまったく同じ事態が起こっているのである。
 たとえ、曹洞宗の宗門が損害賠償の訴訟に敗れ、巨額の賠償を行わなければならなくなったとしても、その賠償費用は、結果的に、各寺院が負担しなければならず、それぞれの寺院は、檀家からの布施によって、それを賄おうとすることになるであろう。在家の檀家以外に、負担者はあり得ない。宗門が自腹を切るということは、構造的にあり得ないのである。
 企業なら、多額の損失を出した場合、経営者は経営責任を問われ、損失を自ら補填しなければならない。背任の罪に問われることさえある。
 ところが、宗教法人の場合には、たとえ法人が損失を出しても、企業のように責任が問われることはない。もちろん、企業の経営者には、責任に見合った報酬が支払われているわけで、そこが宗教法人とは違う。だが、損失額という点では、企業と宗教法人と変わらなくなっている。
 宗門に金が集まるという状況が変わらない限り、これからも同じようなことがくり返される危険性がある。それを防ぐには、宗門に金が集まらないようにするしかない。集まった金をもとに、宗教活動や教育活動を展開するのではなく、活動の実績を見て、檀家が布施をする。今の構造を大きく変えない限り、問題を根本的に解決することはできないであろう。
考えてみれば、私の家も曹洞宗の檀家である。その点で、多々良問題に対して、宗門がどのような解決策を提示するのか。それに無関心ではいられないのである。