近代に仏教はどう生き残るか(後編)

弘誓寺住職 能勢隆之


魂と神

 「宗教」には、「魂」と「神」がつきものである。近代の我々が宗教に抵抗を感じるのは、この魂と神に対してである。科学ではその存在を証明できないからである。どうも無いらしい。
 ではないのか。無いものを無いと証明することは難しい。それに魂・神は、科学・理性の取扱範囲外のものである。だから存在の証明はできていないし、同時に否定もしきれてはいない。
 だから宗教を否定する時には、そんなものは存在しないと思うし、宗教を肯定する時には、否定できていないから存在するのだと言う。人は誰でもこの両方の間で揺れ動く。どちらかに決着を付けてすっきりしたいが、これは決着の付けようがない。それが人間である。
 すでに述べたように、理性・科学が人間の全てではない。人間は、科学・理性を越えている。
 だから人間の「宗教心」からすれば、「魂」の存在が証明できるかできないかなど関係ない。科学ともほとんど関係はない。
 「魂」は人間を越えたものである。邪悪な魂も考えられるが、ふつう「神聖」なものである。そしてそれは「神」に通ずる。
 我々は死者に掌を合わせている。それはその神聖なものに掌を合わせ、拝んでいるのである。
 あるかないか分からないのに、それをありがたがって拝む。それは人間が蒙昧さなのか。むしろそれは、人間の心の不思議さ、深さではないか。
 この心を人間から無くしてしまったら、人間の最も大事なものが失われるのではないか。人間の崇高さはなくなってしまう。
 それは人間だけに与えられた不思議な能力である。だから人は、魂や神を認め、それを拝む。
 魂や神は、人間だけに認められるものではない。太陽や月、山や巨木、その他いろいろなものに対しても、何か精神的な神聖さを感じ、拝もうとする。それがむしろ人間の素朴で自然な心ではないか。
 西洋一神教の影響で考えてはいけない。一神教が高級でも何でもない。一神教には無理がある。だから不寛容で、他を破壊しようとする。自然な宗教にはそれがない。
 例えば「針供養」がある。使い古した針を、お世話になりました、と豆腐に刺して供養をする。
 あなたは針供養教の信者ですか、針が成仏しますか、等と言う人はいない。非科学的でも、迷妄でもない。ほほ笑ましい心ではないか。一神教ではこんなことはできないから気の毒である。
 富士山や大峰山を拝んでいる人がいる。この人は富士山教の信者でも大峰教の信者でもない。ご本尊は何ですか、教義はどうですか、等と言う人もいない。その教えを「信じるか」「信じないか」等と決断を迫られたら、日本人ならみんな逃げ出すだろう。
 だから日本人は「私は無宗教です」と言うが、それは「宗教心がない」ということではない。

拝む心

 聖なるものとは、人間を越えたものだ。聖なる何かが存在するかしないかの証明など関係ない。人間は、拝むもの、頭を下げるもの、頭の下がる「何か」を求めているのである。
 誰も頭なんか下げたくない。威張っていたい。ところが頭が下がるものを求めている。不思議な心である。それは人間の心の中に、尊い何か、聖なる何かがあるからだ。それがなければ、拝もうなどと思わない。拝めない。
 元旦には何千万の人が初詣をする。虫のよいことをご祈願しているんだ、と言えなくもないが、やはり拝んでいるのだ。
 葬儀でもそうである。焼香し合掌するのは死者を「拝んでいる」のである。
 西洋一神教の影響を受けた考えからすると、仏教徒なら帰依し拝むべきは、釈迦如来や阿弥陀仏であって、死者を拝むのはおかしい、矛盾だ、と思うかも知れない。
 だが仏教では、誰を拝んでも少しも矛盾ではない。葬儀法も実によくできている。江戸時代のすぐれた仏教者を経ているから、おかしな所は、どこにもない。
 死者はどこにいるか。お墓の中か、生まれ変わったか、お浄土か、天国か、お星さまになったか、千の風になったか。分かる人はいないだろう。
 理性では証明しようがない。証明できないものを「信じる」のが「宗教」で、「仏教」もその延長で考えられているようだが、大変な間違いである。分からなくてよいのである。
 高祖も遺偈で「黄泉に陥つ」と言われている。我々も遺偈に「黄泉」はよく使う。黄泉は中国の思想だが、仏教者として少しも矛盾を感じていないではないか。
 仏法に自信があるから「黄泉に陥つ」などと平気で言えるのだ。何の問題もない。
 もっとも、天国とか千の風とか言われるのは、伝統の観念、仏教の伝統が崩れているからで、そこは認識しなければならない。

断見と常見

 因みに「仏教は霊魂を認めておりません」と言った僧の言葉はどうか。仏教は死後の霊魂を認めているのか、いないのか。
 もし死後肉体が滅びれば心も無くなるとするならば、これは断見である。逆に肉体がなくなっても心は残るとすれば常見である。
 断・常の二見を「辺見」(辺執見。偏見とは別)と言う。辺見は十根本煩悩の一つである。彼はそこに気付いていない。
 死後心が無くなるというのも残るというのも間違いである。断見でなければ常見になる。論理的には行き詰まってしまう。どう答えればよいのか。これを論理の破綻だなどと言ったら、仏教者として落第である。
 実はこの行き詰まったところからが、仏道の本当の参学であり、肝要のところがそこにある。その参究をしなければ、大仏殿まで行きながら大仏さまを拝まないで帰るようなものだ。だがその前に行き詰まりに気付かなければならない。更にその前に教理を学んでいなければならない。
 こういう言葉を聞くたびに私は、仏教者は仏教教理をきちんと学んでほしい、と思う。
 輪廻についても同じである。近代の人間として疑問を持つのは当然だ。だがその疑問を持ったところからが本当の参究なのである。仏教教説はそんなヤワなものではない。ただこれについては論の主題から離れるので、今は述べない。

一念三千

 「道徳心」と「道徳」とを分けたように、「宗教心」と「宗教」とを分けて考える。「宗教心」から「宗教」が生まれるという関係である。
 「宗教心」は、聖なるものを尊び拝もうとする心である。
 ところが人間には、これとは正反対の「邪悪」な心がある。人間には極善の心から極悪の心まで全てそろえて持っている。
 天台教学で説く「十界互具」「一念三千」の説が、それを最もよく説いている。
 十界とは、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏である。
 十界互具とは、いかなる一念にも、例えば極悪の地獄の一念にも、極善の仏の一念にも、この十界の全てが具有されており、更にその十界のそれぞれに互いに十界が具有されている、と説く説である。
 十界それぞれ互いに十界が具有されているから、一念の中に百界がある。この百界のそれぞれに三種世間と十如是が具わるとされるから、これで一念三千となる。
 つまり、我々がどんな一念を起こしても、その一念の中に十界の全てが具わっている。純粋に清らかな心のつもりでも、その中に邪悪なさまざまな心がある。
 ちょうど十の心をミキサーにかけたようなものだ。きれいな心だけにしたい、と思っても、そんなことはできない。全部具わっている。仏もまた例外ではない。もし仏に地獄・餓鬼の心がなければ、地獄・餓鬼の衆生を救うことはできないのだ。
 だから仏道は、単に煩惱を断ずることではない。煩惱を断じてしまったら衆生は救えない。ではどうするか。俗な言い方をすれば、煩悩を成仏させることだろう。天台教学ではこれを「開権顕実」と言っている。ここが天台教学で一番素晴らしいところであろう。
 何を言いたいか。つまり、人間の心は複雑怪奇だ、奥深い。言うならば魑魅魍魎(化け物)の世界を持っている、と言うことである。
 そしてその複雑怪奇で底知れぬ深い人間の心、それが作り出したのが「宗教」である。

得体の知れない宗教

 だから「宗教」は神聖なだけのものではない。
 「宗教」は「宗教心」から生まれるが、その母体は複雑怪奇な一念三千の人間の心である。
 だから宗教には、ありとあらゆるものが含まれている。祈願、葬儀、供養、呪い、祟り、占い、何でもある。本人は真面目で本気で神聖崇高な気持だろうが、他人から見れば、グロテスクで得体が知れない。
 宗教は人間の心そのもの、人間存在そのもの、と言ってよい。最も崇高で清らかなものを求めながら、その中に邪悪なもの、欲深なもの、病的なもの、得体の知れない魑魅魍魎が渦巻いている。
 しかも心は目に見えない。本人はなおさら気付かない。だから宗教は厄介である。
 「宗教は阿片である」と言うのは一面の真実であろう。だが、宗教などなくしてしまえ、理想社会では宗教はなくなる、という思想も「別種の阿片」であろう。そんなこと、できるわけがない。
 なぜなら、一念三千だからである。悪魔を取り除けば、仏もなくなる。仏を取り入れれば、悪魔も付いてくる。宗教を潰せば、別のもっと悪い宗教がはびこる。
 そこに本当のあるべき宗教のあり方が求められる。

お寺の役割

 ここに我々住職のきわめて大事な役割がある。
 「葬式仏教」の批判はあるが、「葬式」「法事」は、実はなくてはならないとても重要なものだ。批判されるのは、そこに「仏法」がないからである。
 すでに述べたが、人々が寺院に求めているものは、(イ)「一般の宗教と同じもの」である。
 だがそれだけかと言えば、そうではない。第二にではあるが、やはり(ロ)「仏法」を求めているのである。
 もし人々の求めるものが(イ)だけであるならば、「仏教寺院」は必要ない。どんな宗教でも何でもよいことになる。やはり「仏教」が求められているのだ。
 「葬式仏教」という批判もそこから来る。そこに「仏教がない」という批判なのだ。そう考えればこの批判もありがたいと思う。
 人々の求める(イ)と(ロ)、この二つを我々は、きちんと認識しておくべきであろう。
 すると(イ)の一番の基本は、死者の葬儀と、その後の先祖まつりである。これは人間誰も欠かせない。
 特に日本人は「ご先祖さま」である。ご先祖さまを拝む、守ってもらう、お願いする、こういう人が多い。
 先祖まつりにもう一つ加えるとすれば「祈願」である。神さま仏さま、どうかお願いします。そう祈ったことのない人はないに違いない。
 寺院はこの二つをやっている。前者が葬式・法事であり、後者が大般若転読などで、こちらは一般の寺院はあまりやっていないが、豊川稲荷や大雄山などが役目を果たしている。
 宗教はこれだけではないが、普通この二つで宗教の大部分はカバーできる。
 この二つを仏教がしっかり押さえていれば、人々の宗教は大きくぶれることはない。ここをおろそかにすると、人々は新興宗教や、おがみ屋さんに行ってしまう。

葬式仏教「特化」の構造

 人々がお寺に求めるものは一般宗教とほとんど同じであり、お寺はそれに答えることによって大きな役割を果たしている。
 だが最大の問題は、「そこに仏教があるのか」、ということである。「葬式仏教」という言葉が端的にそれを表している。
 お寺に仏教がなければ、お寺の存在意義はないではないか。他の宗教に置き換わってもよいことになり、その時点で仏教は日本から消え去る。
 「葬式仏教」になったのはなぜかを見ておかなければならない。
 仏教は最初、最高の文化であり光り輝いていた。それを最エリートが難解を厭わず、懸命に学んだ。それは国家事業だった。
 だから仏教を経済的に支えたのは、朝廷であり貴族だった。それが次に将軍家や藩主家に広がり、やがて一般庶民もお寺を持つようになった。
 朝廷や将軍家の支えがあるときは、仏教本来の学問や修行に専念することができる。だが一般庶民にそんな余裕はない。葬式と法事ができれば、それ以外は要らない。江戸期の寺請制度は、これに拍車をかけた。
 そこへ明治以降、みんな平等になった。将軍も藩主も一個人である。一般庶民と同じになった。そうすると日本の寺全部が、葬式と法事を務められれば、それ以外は不要となる。
 寺院もこれを務めなければやっていけない。地方僧堂の安居者も、坐禅より檀務に忙しい。日本の寺院はますます葬式仏教に「特化」する。
 葬式仏教になった責任の多くが仏教者にあることは認める。だが言い訳ではないが、構造的にこうならざるを得なかった部分を、きちんと認識する必要がある。
 つまり日本仏教は、葬式仏教から抜け出すどころか、いっそう特化する方向にある。

時代の趨勢

 葬式法事に特化して抜け出せない。抜け出したら日本仏教の息の根が止まるところまで来ている。
 にもかかわらずその葬式法事そのものが崩壊に向かっている。人々の生活様式と意識が変化しているのだ。
 第一に科学の影響。僧侶までが「霊魂なんてありません」と言う。死は無である、無に何の意味があるか、生きている者の方が大事だ、と思っている。葬儀や宗教に意味が見出せない。葬儀をして何の意味があるのかと思っている。
 第二に旧来の共同体の崩壊と、それによる檀家制度の崩壊である。共同体の縛りがなくなり、個人主義が強くなった。
 それにお布施や戒名料は高額である。何のためにこんなに出費をしなければならないのか。みんなそう思っている。
 これが時代の趨勢だが、これに任せてよいものか。

仏道と先祖供養

 ここで暫く論点が変わるが、仏教と葬式・先祖供養の関係を見てみたい。
 もし仮に寺院が、仏教の研鑚修行と布教だけで、葬式・先祖供養をしなくなったらどうであろうか。その例を見てみよう。
 「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたること、いまださふらはず」(歎異抄)。親鸞聖人は、父母のへ孝行供養のために念仏したことは一度もない、と言われる。
 この言葉をそのまま受け取れば、浄土真宗では、先祖供養は要らないということになる。
 そしてそのとおりで行こうとする真宗原理主義とも言うべき傾向が真宗にあるように思う。先の「霊魂なんてない」という発言もそこから来ているのかも知れない。
 いつも感心するが、真宗僧侶・門徒の宗旨への態度は見上げたところがある。宗旨に忠実であろうとする態度は立派である。
 我々も父母のために坐禅をすることはない。念仏も同じだ。宗旨として間違っていない。
 だが、真宗門徒として、たとえ念仏の信心を確立していたとしても、先祖供養は無意味です、しません、と言われたら「困る」のではないか。
 葬式法事をしないまでも、宗意安心以外のものとして、葬式法事を軽んじたり冷たく扱われたとしたら、門徒として人間として、割り切れないものを感じるだろう。
 「仏法」と「先祖供養」とは、果たして相反するものなのか。そうではない、と私は思う。
 坐禅・念仏は確かに宗旨の根本で最も尊ばれるべきである。葬式法事とは比べられない。
 だがそれは、軽んじてよい、ということではない。食事も用便も、仏祖の威儀でなければならない。打坐が正法眼藏涅槃妙心ならば、食事も用便も同じである。葬式法事を軽んじてよいはずがない。
 私にも仏壇があり先祖の墓があり、葬儀をし供養をする。だがそれによって私の「仏道」は、些かも不純になったり減少したりすることはない、と自負している。
 葬儀・先祖供養は、単なる古い習慣ではない。意識されていないけれども、人々の現実の生活を支えるバックボーンとなっている。これが崩れると、現実の生活も崩れる。
 それについては『仏教企画』第八号に「葬儀の論理」として掲載して戴いたので参考にされたい。

本当のあり方を見定める

 我々は時代に鈍感であってはならない。だが時代に惑わされてはいけない。時代を追うことは、その時点で既に時代に遅れていることではないか。大事なのは、時代の中で、その本質を見定めることである。
 人々の心から仏教への宗教心が希薄になって来ているのは事実だ。これが時代の趨勢か。仏教はなくなるのか。その可能性はある。
 だが見る方向を少し変えてみればどうか。
 葬式法事が崩壊に向かっていると言っても、無くなることを人々が望んでいるのではない。
 浄土真宗の例がそれを表している。たとえ念仏の宗旨に満足していたとしても、葬式法事をしてもらえなければ困るのである。
 仮に仏教が葬式をしなくなったら、他の宗教が取って代わるだけである。それは今よりもっと混乱し、恐ろしいことになるだろう。
 人々も仏教に期待している。空気のように、あるに決まったものだから、有難味を感じないだけだ。その証拠に、本堂を建て替えるとなると寄付が集まるのである。我々は先ず自信を持つべきだ。
 葬式法事だけしてもらえればそれでよい、直接的にはそう思っているかに見える。だがこれも見方を少し変えれば、すでに述べたように、人々が求めるものはそれだけではない。
 (ロ)として挙げた、「仏の教を求めている」のである。そうでなければ我々住職の存在する意味はない。

法衣は装束ではない

 住職とは「住む職」だと聞いたことがあるが、住んでいること自体に意味がある。頭を剃り法衣を着ていることに意味がある。お寺はあっても住む人がなければ、駄目なのだ。そこが神社と違う。
 お寺が葬式・法事をしてもらうためだけのものならば、兼務のお寺でもよいはずだ。ところがやはり、みんな住職のいるお寺を望んでいる。
 「我々の法衣は、警官の制服や、神主さんの装束とは違う」と酒井得元老師が言っておられる(『正法眼蔵と坐禅』【四】僧堂生活。大法輪閣)。そのとおりだ。
 制服や装束ならその時だけである。僧形は違う。我々はお寺に住んでいる。それは一般住宅に住むのとは違う。生活は同じようであっても、「生活姿勢」が違う。つまり、お寺に住み僧形をしていること自体が「修行」なのである。人々はそれを感じ取っている。
 仏教はなくなってはいない。確実に生きているのだ。

伝統の掘り起こし

 日本は現在の仏教にとって未開の荒野ではない。長い年月をかけて開墾されている。
 雨の水が地面にしみ込み時間をかけて地下水となっているように、仏の教えは人々の心の中にしみ込みうるおし、気付かれない形で行き渡り、日本の文化を形作っている。
 しかし耕された田畑ほど、放置すれば草が生え木が生え、たちまちに荒廃する。
 我々はその草を引き木を抜き取り、硬くなった土を鍬で耕し鋤で掘り起こし、肥料を施さなければならない。
 日本人自身の心をもう一度掘り起こすことだ。
 葬式法事への人々の要求がなぜ今も根強いのか。単なる古い習慣と片付けられない。
 この心を見捨ててはいけない。この心を掘り起こすことだ。葬式法事で我々は何をしているのか。その本質は何か。それを見極めなければならない。
 それをしなければ、仏教の復興はあり得ないのではないか。

仏教を学ぼう

 日本から「仏道」を取り戻すために、私たちはもっと「仏教」を学ぼうではないか。
 失礼なことを言う、と叱られるかも知れない。だが現実は、恐ろしいまでに仏教が学ばれなくなっている。
 葬式仏教の「特化」を食い止めるのは我々自身からではないか。
 人々も「仏の教え」を求めているのである。直接求めるのは葬式法事で、堅苦しい「説教」は嫌われているかに見える。その機会も少ない。だがやはり求められている。そう感ずることは多い。
 けれども「仏教」は難しい。まるで歯が立たないように思われる。だが少しずつでも、学び続けることである。一年くらいでは差は見られない。だが三年もすると違いが出てくる。十年すると大きく違ってくる。
 考えてみれば、我々が「葬式」と「先祖供養」を握っていることが、どんなに有利なことか。
 一家で誰かが死ねば、葬式である。信教の自由も関係なく、菩提寺で葬儀、となる。お仏壇がありお墓がある。これも菩提寺だ。余程のことがなければ、誰も他の宗教には行けない。
 ここがお寺が神社より圧倒的に有利なところだ。ここを絶対に手放してはならない。
 だが有利なことは同時に、お寺を「葬式」に「特化」させる。特化したものは、きわめて弱い。葬式以外のことができなくなってしまう。そして葬式が無くなればお寺も仏教もなくなる。そこが一番危うい。その危機が今、現実になろうとしている。
 我々は有利なものをどうして手放すことができようか。そこが一番の教化の場である。同時にそれに頼らない道も見つけなければならない。
 そのためには、我々自身が仏教を学び続けることである。そうしなければ仏教はなくなる。
 そのことを私は肝に銘じたいと思う。

(了)