葬祭の将来を考える
佐々木宏幹先生の
「葬祭文化の現状を考える」を起点として
雲龍寺住職 荒崎良徳
『仏教企画通信』第五号に掲載された、佐々木宏幹先生の「葬祭文化の現状を考える」を拝読させていただき、小生の管見を述べさせていただきます。
佐々木宏幹先生は、「葬祭文化の現状を考える」の後半で、仏教学者ひろさちや氏の意見と、正木晃氏のご意見とを簡潔明瞭に要約し、対立させて紹介しておられます。即ち、ひろさちや氏「釈尊の仏法に還れ。それだけが僧侶の道だ」と、正木晃氏「仏法が伝えられた社会の歴史や文化を重視しよう。それを欠くと空論になる」の二つです。
結論から言って、小生は正木晃氏のご意見に賛成します。
理由は、ひろさちや氏の意見は、一見、正論のように見えるものの、仏教の変遷と、仏教を求めてきた民衆の心情から乖離した理想論に過ぎず、それに対して、仏教の変遷の歴史と民衆の求め続けてきたものを重視されようとしている、正木晃氏のご意見の方が正しいと思うからです。
ひろさちや氏の意見は、単なる「小乗仏教への回帰願望」だと思います。釈尊のご在世中は正論であっても、釈尊入滅後に発生し、今日まで脈々と伝えられてきた大乗仏教の立場からすれば、余りにも原理主義的であり、人々の心情から乖離している意見だと思います。といっても、小生は釈尊の時代の仏教を決して否定したり軽視したりするものではなく、心から尊重し賛嘆し恭敬しております。
釈尊の時代の仏教は素晴らしいものではありましたが、それは飽くまでも「個の救済」であり、そのためには出家し、戒律の厳しい僧伽に入って修行し、求道一途の生涯を送ることを求められていました。それはそれで「個」のためには最善最高の道であったと思います。
しかし、他者の存在を尊重し、他者と共に歩み、他者と共に救済されようとする大乗仏教にとっては、釈尊時の仏教は余りにも狭隘な思考であり、別の言い方をするならば、極めてエリート的な存在であったと思います。その「個の救済」を目的とした釈尊時代の仏教への回帰は、一部の禅定家に任せればいいのであり、大多数の民衆を引導しなければならない現代の僧侶は、一応、棚上げしておいた方がいいと思います。
このあたりのことが、現代の僧侶、特に「禅」を標榜する僧侶にとっては、痛し痒しというか、忸怩たる思いというか、すっきりしないところだと思います。ひろさちや氏の主張の根拠になっている、釈尊の遺言「葬祭は在家の仕事であり、出家者はただ修行に励め」を学校で学び、寺へ帰れば、葬祭に携わることを求められるという生き方が、現代の僧侶の後ろめたさになって、戸惑いを感じ続けているのが現状だと思います。
出家、在家という隔たりではなく
ともに菩薩道を歩む
では、どうすれば現代の僧侶をその後ろめたさから解放することができるか、どうすれば胸を張って葬祭を執行することができる僧侶を育成することができるかについて、小生の管見を述べます。
それは、一にも二にも、大乗仏教に徹することであり、自分自身は大乗仏教徒であることを徹底して思い知ることであると考えます。
そして、大乗仏教の要である「菩薩思想」を改めて検証し、イスラム教やキリスト教など他の宗教にはない、仏教独自の思想である「菩薩思想」を、しっかり把握することが何よりも大事なことであると考えます。
子供の頃に、小生は「大布薩」の小者を何度も勤めさせてもらいました。そのとき、行籌で籌を戒師に渡すとき「出家の菩薩若干人、在家の菩薩若干人」と唱えことを、今でもはっきりと覚えています。そして思ったことは「坊さんも檀家の人も、みんな菩薩さまなんだな」ということでした。
また、授戒会のとき、戒師さまからいただく「血脈」の表に「仏祖正伝・菩薩大戒」と書かれてあり、更に葬儀のときに死者に授戒後に渡す「血脈」にも同様に「仏祖正伝・菩薩大戒」と書きます。更に、私たちが得度するときに頂戴するものも「仏祖正伝・菩薩大戒」です。
ということは、現代の、少なくとも曹洞宗の僧侶は、すべて例外なく、一人残らず「菩薩」であるということです。もっとも、菩薩戒を受けただけでは新発意菩薩に過ぎないのであって、ほんものの菩薩は「四弘誓願」と「六波羅蜜」を実践し続けなければならないのですが……。
とにかく、私たち曹洞宗の僧侶はみんな菩薩であることを自覚し、その決意で葬儀に携わるならば、一切の後ろめたさなどから解放されるのではないだろうかと思います。無論、僧侶自身が、日常、菩薩行である「四弘誓願」と「六波羅蜜」を着実に実践し続けていることが条件になりますが……
すると、以前論議されていた「没後作僧」という問題も解消されると思います。遺族から「死んだ人を坊主にしたくない」というクレームがついたと聞いていますが、菩薩は坊主ではなく、いわば在家の仏教求道者としてあの世に送ることになりますから、遺族も納得すると思います。むしろ、観音さまや地蔵さんと同格の存在として拝むことになるわけですから、喜ばれるかも知れません。また、いわゆる「追善供養」においても、「亡くなられた方は、今、仏さまのもとを目指して菩薩道を歩んでいらっしゃるのだから、その応援をしましょう。そして、私たちも亡くなられた方に負けないように菩薩道をしっかり歩き続けましょう」と呼びかけることもできると思います。
これからの葬祭は、先輩としての菩薩(僧侶)が、後輩として菩薩を志す人(死者)に、菩薩戒を授け、菩薩道に導き、共に菩薩道を歩み続ける、という信念で執行すべきだと考えます。つまり、出家・在家という隔たりではなく、同じ道を共に歩む先輩・後輩としての立場で葬祭を司り、心をこめて勤めることが大切ではなかろうかということです。
高祖大師は「在家者の葬送」について、具体的な教えはお遺しになりませんでした。しかし、『正法眼蔵』の中では『法華経』を諸経の大王と称えられ『道心』の巻では法華経の写経と供養を極力お勧めになっておられます。ということは、高祖大師は、葬送の心構えや在り方は『法華経』のままに、というお教えではなかろうかと思うのです。
そして、法華経の正式名称は『大乗経の妙法蓮華の教え、菩薩の法、仏の護念したもう所』です。ある意味では、法華経は菩薩の意義、菩薩の在り方、菩薩の道を懇切丁寧に説いた経典だといえます。とするならば、葬祭に当たっては、その根本信念として『法華経』を体し、菩薩として死者を仏の下に送り届ける心情を精一杯吐露すべきだと考えます。
『菩薩』を第一義に掲げるならば、霊魂の有り無しなどは、最早、次元の異なる論点に退き、葬祭執行者の忸怩たる思い、或いは、後ろめたさは消滅してしまうと思います。
是非『仏祖正伝、菩薩大戒』の意義を深く思惟し、強く打ち出されるよう願ってやみません。
(一部抜粋)