柳緑花紅
求不得苦
作家・俳人 車谷長吉
求不得苦(ぐふとっく)は、お釈迦さまが説かれた四苦八苦のうちの一つである。求めて得られない苦しみを言う。入学受験に失敗するとか、入社試験をしくじるとか、今日でも求めて得られない苦しみは多い。女ならば、高級お洋服とか高価な宝石の指輪とか、求めても得られない物はまた多い。
十五歳の春、私は県立姫路西高等学校の入学試験に失敗し、行きたくはない学校へ行かざるを得ない羽目に陥った。これが私の人生においてはじめて経験した、求不得苦の苦しみだった。人にさんざん小馬鹿にされた。この汚名を挽回するために、私は私の一人考えで作家になろうとした。けれども、そう簡単に作家になれるものではない。ために三十代の九年間、塗炭の苦しみを舐めた。道塗に飢凍する寸前に、堤清二氏(辻井喬氏)に拾われた。
こういう求不得苦は、誰にでもある。ただその度合いに差があり、不遇であるにも拘わらず発心(ほっしん)せず、易々諾々と親が残してくれた遺産を食い潰すだけの生活をしているやつもいる。A氏は二流の歌人である(自分では一流と思い上がっているが)。嫁はんに逃げられ、新宿の韓国パブへ女漁りに行き、嫁に逃げられたことは歌には詠まないが、女漁りを歌に詠んで得々としている。それを恥ずかしいとも思わない。本当は嫁に逃げられたことの方が重大事なのであるが、その重大事の根を考えることは恐ろしいので、臭いものに蓋の態度である。先の大戦中に伯爵家の御曹司として生まれ、戦後は没落華族さまとして生きて来た男である。ああ、世が世であれば、これが口癖である。特権階級への未練が捨てきれないのだ。そして親の遺産を食い潰して生活している。
この男が、平成十年夏、私が直木賞を受賞するや、絶交の留守番電話を吹き込んでいた。声が慄えていた。男としては、歌を詠む上になお、小説家としても芥川賞か直木賞が欲しいという願望を抱いており、新潮や群像の編輯部に原稿を持ち込んでいたが、いずれも箸にも棒にも引っ掛からない原稿で、相手にされなかった。ところが車谷長吉などは自分よりはるかに下の、取るに足らない男と思っていたところ、はしなくもその下の男が受賞したので、嫉みそねみを起こしたのである。直接には私が某雑誌に、この男が神田小川町の酒場でしゃべって聞かせてくれた、面白い教訓話をそのまま書いたので、男は知人の前に面目を失ったというのが、引き金だったが。書いた私も鈍感だったが、A氏のなぜ自分が嫁に逃げられたのかを深く考えない鈍感さも相当なものだった。いや、逃げられた原因はよく分かっているのであるけれどもそれを表現することは、世間体が悪いのでしないだけである。それを真正面から表現すれば、賞を得られるのに。
かくのごとく、人が栄誉を得ると、その周囲には求不得苦が巻き起こるのである。私などは作家になる決心をした時から、親から一銭たりとももらったことはなく、文学の道へ進みたいがゆえに、遺産も全額放棄した。覚悟のほどが違うのである。私も貧乏生活の底で、芥川賞に蹴落とされるという求不得苦を二度経験した。
(挿絵・長谷川葉月)