人生の糧になる仏教のことば


煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)


  東京都
  天徳院住職 大薮正哉



 「煩悩」は私どもの身心をなやます欲望のことです。食欲、性欲、名誉欲などが代表です。しかし食欲がなくては生きてゆくことはできません。性欲がなくては「いのち」を子孫に伝えてゆくことはできません。名誉欲がなければ、「努力しよう」という気力がでてきません。
 赤ちゃんはおなかがすくと泣きだしますが、おっぱいを充分に飲むと、またスヤスヤと寝てしまいます。赤ちゃんは「煩悩」になやんでいないようです。成長して大人になると、誰もが「煩悩」になやまされるようになります。これは、私どもの心の中の「欲望」が成長して、自分の力以上のことを希望するようになってしまうからではないでしょうか。
 私どもが生きてゆくためには、「お水」や「食べ物」が必要です。「食べ物」は三日ぐらい何一つ食べなくても、死ぬようなことはありませんが、「お水」はまるまる一日飲まなければ、かなり苦しいと思います。ときには脱水症状になって死ぬかも知れません。「水がなくては生きてゆけない」ということは、誰もが否定することはできませんが、「水を充分に」と考えて、プールの中に全身を入れてしまっては、溺れて死んでしまいます。「水を飲む」ということは、生きてゆくためにどうしても必要なことですが、水の中にスッポリと浸かってしまっては、生きてゆくことはできません。
 「水を飲みたい」という欲は、生きてゆくために必要な欲ですが、限界を超えてしまっては、生きてゆくことはできません。私どもにとって「煩悩」は、「お水」のようなものです。これが無くては生きてゆくことはできません。しかし限界を超えてしまっては、これまた生きてゆくことはできません。この「限界を心得る」ということが「菩提」です。そして「煩悩」が無くては「菩提」の心境に入ることはできません。私どもが「菩提」の心境に入るためには、「煩悩」がどうしても必要です。そして「その限界を知る」ことが大切ということになります。


善悪を決めるものは


  宮崎県 昌竜寺住職 霊元丈法


 悪人は自分の罪を知らず
 悪を止めようとせず
 罪を知らされて怒る
 (増支部)

 雪印の嘘、三菱の欠陥隠し、ダイエーやカネボウのワンマン体制が次々に企業の倒産、縮小を招いています。そして、よもやと思われた西武グループでも、かつての貴公子が無精髭で保釈される姿は、金によって得た権力失墜の非情さを映して余りがあります。株という公的資本を、いつしか自分のものと思い込み、側近の諫言にも耳をかさなかった結果です。
 前言に続いて釈尊は、「善人は善悪をわきまえ、悪と知れば直ちに止め、指摘した人に感謝する」と言われます。つまり、善悪の行為そのものではなく、その後の処置が善悪を決めるのです。さらに釈尊は、知らずに犯す悪を一番恐れられています。そのため禅の修行道場では、毎月十五日と月末に、布薩(ふさつ)を行い、知らずに犯してしまった罪を清めます。
 若い頃、老師に「善男善女といいますが、どんな人ですか」と質問しました。すると「盛大な葬儀を見て、立派に送ってもらえて幸せね、と言えるのが善人。いくらかかったんだろう、贅沢なもんだ、とやっかむのが悪人」と答えられたのを想い出しました。
 私の寺で本堂を建てる時、総代さん達と、「住職と檀家と目的は同じで、敵ではないはず」と、お互いに決して悪口を言わぬこと、言うべきことは直接ぶつけることを約束しました。そのおかげで、「和尚の寺ではない自分の寺をつくる」との大きな団結を得ることができました。




(イラスト 有本 恵)