シリーズ第一章 総序
道元禅師のみ教え
『修証義』
曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外
大本山總持寺
第五節
善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受
、三者順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
(訳)
善悪の報いには時間的に三段階がある。第一には今生で行ったことの報いを今生で受けること、第二には次の世で受けること、第三にはさらに次の世以後に受けることである。これを三時というのである。仏祖の教えを学ぶには、先ずこの三時の業と報いについての道理を学び、修行するのである。そうでないと多くの者が、因果応報の道理はないなどという邪見におちてしまう。ただ邪見に堕ちるだけではなく、悪道に堕ちて長い苦しみを受けることになってしまうのである。
第六節
当に知るべし、今生の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。
(訳)
今生の我が身は二つも三つも無いと、本当に自覚すべきである。因果がないなどという邪見に堕ちて、悪業の報いを受けてしまうことはもったいないことである。それは惜しいことではないだろうか。間違った考えを起こし、悪を行いながら悪だと思わないうえに、悪の報いなんかあるはずがないなどと思ったとしても、悪の報いを受けないはずはないのだ。
(解説)
この世で行ったこと(因)によって、その報い(果)の現れる時間的な段階には三段階あり、第一はこの世で、第二はこの世で現れなければ次の世で、第三はそれでも現れなければ、その次の世以降で結果が必ず現れることを、三時業と言います。それは、悪いことばかりではありません。善いこともです。
この世で善いことを行ったとしても、必ずしも生きているうちに報われるとは限りませんが、いつの世にか必ず報われるのです。悪をなした場合も、同じです。
それでは、邪見とはどのような見方をいうのでしょう。道元禅師は、「因果の法則をないものとすること」、「仏法僧を非難すること」、「三世と解脱などないと否定すること」これらを邪見とおっしゃっています。ですから、単に「間違った見解」とは違います。
では三時業といい、三世ということは、この今の命が次の世にまた生まれることをいうのでしょうか。輪廻転生があることを意味しているのでしょうか。自分の前世はなんであったかと想像することは、神秘的で楽しいかもしれません。はたして、道元禅師のおっしゃる三時や三世はどのような意味なのでしょう。
過去から未来に、このまさにただ今(而今)はぶっつづきであること。人間の命のみならず、全てがです。そして、永劫に修行し続けていくことを信じて、今生の修行をし続けていく、而今の修行をし続けていく、来世も修行し続けていこうという信念になるのです。
時々、誰それの生まれ変わりだという人もいますが、前世におけるその人と、全く同じ人間ではないことは明白です。ただ、例えば、私の場合で恐縮ですが、先祖のお坊さんであった人が、修行し続けていきたいと願った願いが私にも届いていると感じます。私もまた修行し続けていきたいと願います。この願いは生き続けるでしょう。
永遠の過去から永遠の未来にわたる人間という一つながりの命を、私は今、私として生きていると受け取ります。
現代人は、科学で証明できることだけを信じる傾向があります。また、理論的に証明できないことを排除し、そのようなことを是とすることを懼れるような傾向が、宗教界にもあります。しかし、どうして科学が万能でありましょうか。どうして理論的に論じられる学問だけが万能でありましょうか。
いくら優秀な頭脳といっても、物質である人間の頭脳には、限界があります。
例えば、科学者の粋を集めたような地震・火山噴火予知協議会などの先生たちが、この度の東日本大震災のような大地震を予知できたでしょうか。残念ですが、科学は決して万能ではありません。
しかし、この地震と津波に対して、ある人が「我欲」を洗い落とす必要があると言い、「天罰」とまで発言しましたが、たとえ撤回したとはいえ恐ろしいことを言う人がいるものです。自然は、残念ですが非情です。自然には、被災した人間は可哀想だとか、もしくはやっつけようとかの感情は全くありません。しかしある種の生命体である地球は、常に動き続けていますから、エネルギーがこの度も大きく海のなかで動いて、地震が発生してしまったのです。
しかし、この地球自体でさえいつか消滅するものなのです。アインシュタインの相対性理論、E=mc^2を使えば、太陽の消滅の時は、54×10^8つまり54億年と計算できるそうです。その時、人類もなにもかにも、その前に人類は滅亡しているかもしれませんが、消滅するのです。いくら長くても、太陽の消滅までの人類です(すると、永遠とは言い切れませんね)。大自然のエネルギーのなせることには、人間の我欲など、太刀打ちできるものではないとさえ言うことができます。「天罰」などともとんでもないことです。このような混乱した考えは、それこそ邪見ということができるでしょう。(ただ、原発事故は原子力発電所をつくったこと自体が人災だと私は考えています。)
さて、因果の法則は必ずありますが、前号(春彼岸号)に引き続き、別の角度から善悪とはどのようなことか考えてみましょう。人間が繰り広げることのなかには、なにが善いか悪いか分からないことも多いのではないでしょうか。私の本師の口癖は「なにが善いか悪いか、わからんぞ」という言葉でした。その時は、そんな無責任な、と思いましたが、価値判断をすぐにしたがる安直な見方を誡めた教えだったと、今では思い返しています。
でもそれでは、どうしてよいかわからないでしょうから、あきらかに悪といえる基準を一つ考えてみると、「自分さえよければよい」という考えや、その考えのもとになす行い(業)、これは悪業と言えるのではないでしょうか。
それにしましても、私にも結構、いろいろな悪心があります。我が心を掌の上に乗せて見てみれば、悪心のほうが善心より多いかもしれません。しかし、有り難いことに仏道に出会って、この悪心に光りをあてることができるようになったということがいえます。
誰にでも悪心があるのではないですか。この悪心に光をあてて、悪心のままに生きないよう、行動しないように導いてくれるのが宗教ではないでしょうか。
「自分さえよければよい」という悪心に、宗教の光をあてて、「ともに生きていく」力としたいものです。「ともに力をあわせて生きていこう」として現れた行為、それを仏性と仏教ではいい、キリスト教では愛といいます。
道元禅師は、この唯一のただ今の命と、而今に行う事の大事なことを、教えて下さっています。それこそ何時なんどき、この命は終わらなければならないか、本当に誰にも予測できないことです。ひたすらに今ある命を、人間として営々と生き続けていく、助け合って生き続けていく、災難は他人事ではなく、必ずや、明日は我が身に降りかかることです。
東日本大震災で犠牲になった方々の冥福を祈り、被災された方々の生活が一日も早く安定しますようにと祈りつつ、それぞれのできる力を出し合いながら、未来を信じてともに歩いていきたいと願うばかりです。