シリーズ第二章 懺悔滅罪

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

 大本山總持寺

第七節

仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり。是れ一切衆生を証入せしめんが為なり。人天誰か入らざらん。彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ。又滅罪清浄ならしむるなり。

(訳)
 仏や祖師方は、衆生を憐れみのあまり仏道への広大な慈悲の門を開いておいてくださった。これは全ての衆生をめざめさせて仏道に入らせようとするためである。人間界や天上界の迷いの六道にある者でも、入れない者は誰もいない。前に述べたが、順現報受(現世で報いを受ける)、順次生受(次の世で)、順後次受(さらに次以降の世で)の悪業の報いは必ず受けなくてはならないが、懺悔するならば、重い罰を受けなくてはならない悪業も、軽くすることができるし、また罪を滅して、清浄になることができるのである。



第八節

然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし。恁麼もするとき前仏懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ。此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり。浄信一現するとき、自他同じく転ぜらるるなり。其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。

(訳)
 そうであるのだから、ひたすらに誠を尽くして、仏のみ前で懺悔すべきである。そのようにするならば、仏前での懺悔の功徳力が、私たちを救って清浄にしてくれるのだ。この功徳は、一切こだわりのないまことの信仰と精進する力を育ててくれるのである。ひとたび汚れない信心が現れたなら、自分だけでなく他も救われる。その功徳は人間や動物だけではなく、山川草木にも及ぼされるのである。

(解説)
 一人でも多くの人を救わないではおれない、というのが仏の願いですから、門を叩く全ての人に、仏教の門は開かれているのです。親鸞聖人という方は「善人なおもて往おう生じょうをとぐ、いわんや悪人をや」と仰おっしゃ有いましたが、まさに悪人こそ救いたいのが仏の願いとさえいえましょう。
 多くの人は、我は善人と思っていたり、自分の人生を苦と思っていないかもしれません。そういう人は、宗教に救いを求めないかもしれませんね。でももし、あなたが何か苦しいことがあり、こんな自分でも救われるだろうかという思いがあり、また真理を学びたいという思いがあるならば、仏教の門は、誰にでも大らかに開かれています。
 この門を開く鍵はただ「懺悔(さんげ)」であると、『修証義』では説かれます。
 あらためて三時の業を考えてみますと、悪業だけでなく善業も三時にわたって有り難い報いを受けるのですから善を積むことは命の喜びです。一方、悪業も三時にわたって罰を受けるのですから、これは辛く苦しいことです。その苦しみから逃れるためには、懺悔がいかに大事かということです。
 懺悔するにしても、普通は人の前では、どこかに真実ならざるポーズを作ってしまうのではありませんか。ですから道元禅師も「仏の前で」と教えてくださっています。ごまかさずにというよりは、仏の前ではごまかせないのだということでしょう。誰にでも開かれている門とはいえ、まことの懺悔でなくては、入ることはできない門かもしれません。
 キリスト教では、カトリックの場合は、司祭を通して自分の罪を懺悔(キリスト教的にはざんげと読む)し、罪の許しを受けますし、プロテスタントの場合は、直接神に自分の罪を懺悔し、神の許しを受けるのだそうですね。
 このような懺悔(仏教的にはさんげ)の行が、どうも日本の仏教ではあまり浸透していないと思います。日本の仏教徒は、「苦しい時の神(仏)頼み」などという言葉もあるように、仏前において、懺悔よりも、お願いの方が多い民族かもしれません。(個人的には、この楽天的な民族性は決して否定されるべきではないと思っています)。
 ここであらためて懺悔の行について考えてみましょう。生きていれば、人間は何かしらの罪を犯すでしょう。生きていること自体が罪だと言った人もいますが、日常のなかでも、何かしら反省すべき事はあるでしょう。「自分さえよければよい」という思いは、自らを汚していますし、「自分だけが正しい」という思いも自らを汚します。
自分の行為を振り返ってみれば、悔い改めたほうがよいことはたしかに山ほどあります。お授戒についた経験のある人は、覚えているでしょうが、懺悔道場のとき「小罪無量」と書かれた紙をお炊たきあげします。気づいている罪、気づいていない罪、全部ひっくるめてお許しを、と願うわけです。できれば、自分で意識している反省材料は、これこれをお許しを、というように具体的に仏前で懺悔する方が、さらに救いがあるのではないでしょうか。(懺悔というと、いかにも重たい感じがありますが、よほどひどい悪いことでなければ、日々の反省という表現でもよいのではないでしょうか)。
 私がまだ出家していなかった頃ですが、永平寺のお授戒についたことがあります。戒師様は佐藤泰舜禅師(永平寺七四世、一八九〇〜一九七五)という方で、その時はすでに両の目がお見えになっていらっしゃいませんでした。
 懺悔道場の時でした。戒弟の一人の婦人が、身を投げ出して号泣なさいました。だいぶ前の話ですので、詳しくは覚えていないのですが、苦しかった人生を思い、その婦人は全てを禅師様にゆだねて号泣されたのだと思います。その時の禅師様は、この婦人にとっては、仏様も同じだったことでしょう。
 この当時、私自身こそ、悔い改めなくてはならないことは山ほどありましたが、その婦人のように身を投げ出すほどには、懺悔しきれませんでしたので、その姿が印象に残っていました。
 『仏説観普賢菩薩行法経』のなかに「一切の業ごっ障しょう海かいは、皆妄もう想ぞうより生ず。もし懺悔せんと欲せば、端たん坐ざして実相を念ぜよ(一切の悪業の集まりは、とらわれの心から生じるのである。もし懺悔しようと思うならば、正しい姿勢で静かに坐して真理を思いなさい)。」という文言があります。
 ただ悪うございました、と一度は懺悔しても、ここが分かっていないと、また同じ間違いをしてしまうでしょう。「悔いること」はできても「改めること」ができないでしょう。「傷だらけの人生」ならぬ「後悔だらけの人生」だった、と悔やまないようにするには、一切の悪業は執着する心、とらわれの心から生じていたとわかったときに、本当は、そこではじめて本心からの懺悔ができるのではないでしょうか。
 道元禅師は、在家出家にかかわらず、坐禅弁道すれば広大な慈門に入れる、と仰有っています。とらわれのない身心は、やはり頭で理解しただけでは得難いのではないでしょうか。坐禅できる人は坐禅をし、できない人の場合は、たとえ短時間でも静かに坐る時間を持ちたいものです。そうして、懺悔しつつ生きていけば、いつお迎えが来ても、悪あがきせずにお迎えの雲に乗ることができるのではないでしょうか。そうです、黄よみ泉路じ行きの雲は、突然に飛来してくるものなのですから。