歌に潜む仏教のこころ

秋彼岸特集 長田暁二さんに聞く

 歌謡曲には人の心をゆすぶる大きな力があります。このたびの東日本大震災でも、被災者の多くの方々が、悲しみから立ち上がる希望のことばや心を癒すメロディーを歌の中に見出しています。
 長年にわたってレコード会社のディレクターとしてさまざまな歌を世に送り出してきた今回のゲスト・長田暁二さんは、曹洞宗のお寺の出身。その活動は広くメディアで注目され、たくさんの著書もあります。今回はその中の一冊で、仏教的な考え方が投影され表現された歌を綴った近著『歌に潜む仏教のこころ』に副いながらお話を伺いました。

( インタビュアー 石原恵子)

長田暁二(おさだ・ぎょうじ)
一九三〇年、岡山県生まれ。駒澤大学卒業。一九五三年キングレコード入社。童謡担当ディレクターを振り出しに二十二年間ディレクター一筋。その間、芸術祭賞一回、同奨励賞三回、日本レコード大賞企画賞三回、童謡賞七回ほか多数受賞。一九七五年にはフランスACCディスク大賞を「ピアノと鳥とメシアンと」で受賞。その後ポリドール学芸部長、徳間音工常務取締役を経て、一九八二年フリーに。童謡、民謡、軍歌、歌謡曲、歌曲、オペラなど活躍範囲は幅広く特に抒情歌に造詣が深い。さらに「日本の歌の歴史」「メディアの発達と歌の変化について」の研究では権威的存在である。他にもCDのライナーノート、新聞、雑誌への寄稿、コンサートなどの舞台構成、演出、司会、TV・ラジオの台本、出演、音楽文化講演の講演活動も多い。


――長田さんは、童謡、民謡、歌謡曲、演歌、フォークソング、ポップスのほか、オペラまで、幅広い分野でディレクターとして音楽にたずさわりご活躍されるほか、日本の歌の歴史や変遷を研究され、多くの楽譜や書籍も出版されています。『歌に潜む仏教のこころ』では、「日本は仏教の国であるから、当然、仏教精神に支えられた歌がたくさんある」とお書きになっています。生家がお寺だそうですね。

長田 岡山県の西南端にある笠岡市の威徳寺という寺の次男坊で、一九三〇年に生まれました。駒澤大学の英文科に入って、部活は児童教育部におりましたが、ほとんど学校へ行ったことがないんです。(笑)

――何をされていたのですか。

長田 コロムビアレコードでのアルバイトです。主にレコーディングオーケストラのバンドボーイです。歌い手さんがレコーディングされるときに傍についたり、その準備や片付け。ですから有名な方を目の前で見ながら、時には叱られながら、いろんなことを覚えさせていただきました。

――このたびの大震災でたくさんの方が被災されて、心が沈んで悲しい中でも、やはり歌を聴きたいとラジオ局などに曲のリクエストがたくさんあるようです。歌は人々に生きる力を与えてくれるものなんですね。

長田 そうです。歌にもいろいろ種類があって、暗い歌や、恨みつらみを言っているような歌もありますが、そうした歌はこの時期に合わないと思います。ほのぼのと心が温まる、美しくきれいなメロディーで心が癒やされるような明るい歌が望まれておりますね。

生きていることを実感した歌が皆の励ましに

――ご本の中に、勇気や生きる力を与えてくれる歌のエピソードがたくさんありますね。

長田 あの漫画家のやなせたかしさんは当時、放送台本も書いておられ、お忙しくて、もう仕事が詰まり、ノイローゼになって死のうかと思っていたのだそうです。それで寒い日に懐中電灯で手を温めて、ひょっと手のひらをかざしたら、真っ赤な血管が見えたのだそうです。あ、おれには血が流れてるんだ、生きてるんだ、だからこの命を大切に頑張らなきゃいけないと思った。そのときに書いた「手のひらを太陽に」は子どもの歌として書いたのではなくて、自分自身を励ます歌としてお書きになったんですね。今ではそれが、みんな仲良くしましょうとか、励まし合う歌とされていますが…。いずみたくさんがリズミックで明るい曲を付けましたからね。

――「手のひらを太陽に」ですね。私もよく歌っていました。

長田 最初は宮城まり子さんがテレビで歌って、次にボニー・ジャックスが歌いました。非常に評判がよくて、紅白歌合戦で大人が子どもの歌を歌ったのはこれが初めてだと思います。それによってさらに茶の間に人気が出て、教科書にも載るようになりました。

鎮魂歌「しゃぼん玉」

――野口雨情の「しゃぼん玉」のお話も書かれていますね。

長田 ええ。あの歌は、いつどこで発表されたのか分からなかったのですが、最近、児童文学者の手により解明されて、一九二二年十一月号の『金の塔』という仏教子ども雑誌で発表されたことが分かったんです。
 若い雨情は石川啄木と一緒に函館の新聞社で机を並べておりました。そのときにみどりさんという長女を病気で失うのです。たった六日間の短い命。ところが仕事が忙しい、家が破産する、生きていくのにそれどころじゃないということがいろいろございました。たまたま『金の塔』から子どもの歌を依頼されたとき、ふっと考えたら、みどりさんの十三回忌だった。だから「しゃぼん玉飛んだ、屋根まで飛んだ」というのは、今まで供養もしてやれなかった子どもに対する父親としての鎮魂歌ですね。生まれてきて、屋根まで飛んで、しゃぼん玉のように壊れて消えたという。まず世の中の無常を歌っておられるんですね。雨情が無常を歌ったんです。(笑)
 あの短い詩の中に、消えたという言葉が四回も出てきます。それははかなく消えた娘に対する父親としてのいとおしさですね。そして、最後の言葉は、どうぞ無常の風よ吹かないでくれと。元気に空へ飛んでいってくれという、親としての宗教的な願望を歌って結んでおられるんですね。

――歌には仏教をいしずえにした心が見え隠れするのですね。

長田 私はキングレコードで昭和二十九年から四十九年まで、現場のディレクターをしておりました。賀来琢磨先生という駒澤児童教育部の講師で、キングレコードの専属舞踊家でした。それから本多鉄麿先生、この方は「鯉のぼり」などを作曲された弘田龍太郎先生のお弟子さんで、調布幼稚園の園長もなさっていた作曲家ですが、レコードや放送で随分活躍なさいました。私はこうした先生がたのご指導をいただいて、在職中には随分讃仏歌を録音しました。
 でも、レコード会社は株式会社ですから、採算が取れないものはオーケーしてくれません。ですから、私が「月光仮面は誰でしょう」とか、「犬のおまわりさん」とか、「さっちゃん」とか、「小さい秋みつけた」とか、「すうじのうた」とかをプロデュースして、そういうものがヒットして会社が喜んでいるその隙に、すっと讃仏歌の企画を録音したりしました。

月光菩薩がヒーローに

――「月光仮面」は長田さんも企画に参加されたとか。

長田 映画が全盛の時代で、先輩のディレクターの多くが、テレビは電気紙芝居だなんて言ってばかにしていましたが、私はこれからはテレビ時代が来ると思っていました。日本で最初の連続テレビ映画が「月光仮面」なんですよ。それに目を付けて、スタッフの中に潜り込んだわけです。

――潜り込んだのですね。(笑)

長田 原作が川内康範さん、函館の真宗のお寺のお坊さんの子ですね。それから、プロデューサーが西村俊一さん。新東宝の助監督をやっておられて、八王子の信松院というお寺の長男です、次男の西村輝成さんは駒澤大学の児童教育部で私と親友の同級生です。
 そういう関係もあって、宣弘社の小林利雄社長が、アメリカではテレビ映画をみんな映画会社が作っている。その高い権利を買うのではなく、日本でつくらなきゃいけない。この指とまれっ、と言ったときに集まったのがその三人でした。それで「怪傑黒頭巾」、「鞍馬天狗」といったお話を現代風にアレンジしようということになって、時代はなにごともスピードが速くなっているから、今流行っているオートバイに乗り、月の光に乗って、危ないときになったらバーッと駆けつける。そういうのはどうだろうということになった。
 そしたら川内康範さんが、闇を照らす月光菩薩の名前をつかったらどうかと。それで、月光仮面にしようということになった。「仮面」としたのは、当時テレビの役者がいなくて、一流の女優さん、俳優さんはテレビへ出たら映画会社をクビになる六社協定というのがありました。だから無名の人間を使う。そして、仮面を付けているのだから、けがをしたらすぐ体型が似たスタントマンに代えられたのですよ。それで月光仮面。

――まさか、月光菩薩からの命名とは。すごい、知恵ですね。

長田 それで、川内さんが「少年クラブ」にその物語を連載し、できたものから順に撮っていく。それには主題歌が要る。作詞を頼むので、あなたが描いてる月光仮面のキャラクターというのを教えてくれと聞くと、川内さんが言ったのが、どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている。月光仮面のおじさんは、正義の人よ、よい人よ。疾風の如くやってきて、疾風の如く去っていく。連続ものだから、正体をばらしちゃいけないので、紙芝居と同じで、月光仮面は誰でしょうと。

――もう歌詞は会話そのものだったのですね。(笑)

長田 とにかく一番だけ出来たら、すぐ作曲家に回して放映に間に合わせたのです。それで、ただ普通のマーチじゃ軍歌調になるから、それにロックを組み合わせた。あれはロックマーチなんです。三連音符がタンタンタンタンと鳴ってるんですよ。だから当時としては非常に耳新しかったんです。子どもの歌にロックを取り入れた最初が「月光仮面」です。

――当時の子どもたちがヒーローに夢中になったのですね。幼いころの歌は絶対忘れないもので、私、あるお寺の書道教室に通っていた頃、始める前にご法話があり、歌を歌うのです。「月影の、至らぬ里は〜」という、法然上人の歌で浄土宗の宗歌だったようですが。ずっと、幾つになっても忘れなくて(笑)。それを歌うと香や墨のにおい、額の月やウサギの絵まで思い出します。

長田 子供のころの体験といえば、私も思い出します。生家の寺の門を下ると石段があって、それを下りたところに鉄道が走っていました。私は、三つの時にそこで汽車に足をひかれ、全身打ち身の状態で、すんでのところで死ぬ事故でした。それからは、私はぴーぴー泣いてばかり。寺で葬式や法事があると、具合が悪いから二階のカイコ小屋みたいなところへ入れられてしまいました。

――かわいそうに。痛かったんですね。

長田 それであるとき、父が蓄音機を買ってきて、かけ方を僕に教えてくれた。そしたら、小さいながらもそれを聴いたら全然泣かなくなって…。朝から晩までレコードを聴いていました。

――どんな曲でしたか。

長田 それがまた不思議で、童謡ももちろんあったけれど、東海林太郎さんの「赤城の子守唄」「国境の町」とか、藤山一郎さんの「丘を越えて」「東京ラプソディー」とか、そういう明るい歌が好きだったですね。長唄や常磐津も聴いたし、「ラ・クンパルシータ」、「ジーラ・ジーラ」、「シボネー」といった洋楽のスタンダードも聴きました。

――すてきなお父さまというか、ご住職でしたね。

長田 ええ。そのころ私は分からないままなんでも聴きましたから、それがレコード会社に入って強みになりましたよ。その結果がとんでもない方向に私の人生を導いていったわけです。
 私はお寺で仏様のご飯をちょうだいして大きくなった人間ですから、お寺は嫌いじゃなかったし、お坊さんになろうという気持ちが非常に強かったのです。本当に一ミリぐらいの差で音楽に対する執着のほうが強かったのですね。

――お坊さんになるつもりで得度されていたと聞きましたが。

長田 二度しています。最初は小学三年生のとき、岡山県の永祥寺という、那須与一の墓がある寺で。そのときの導師は原田亮裕師、後の可睡斎の住職です。それから昭和五十七年に徳間ジャパンの常務取締役を辞め、もう一遍修行し直してお寺へ帰ろうと思い、可睡斎へ行きました。

――五十歳を過ぎた年齢での修行は厳しかったでしょう?

長田 高校や大学を出たばかりの若い方と一緒に朝起きて、寒い朝でも水をかぶり、特別扱いはまったくなしの一年間でした。でもその間でも、やはり歌に関する本は夜遅くまで書いていましたね。可睡斎で書き始めて、それから『大法輪』に連載して、その中からセレクトして本にしたわけです。

――それがこの『歌に潜む仏教のこころ』という本ですね。ところで、駒澤大学で英文科に入られたのはなぜですか?

長田 戦後、駒澤大学に英文科ができたのですが、私は仏典の英訳をしたかったのです。欧米人にキリスト教を教えてもらうだけでは駄目だ、日本人が英文をもって欧米人を仏教化しなくてはいけない。そんな偉そうな気持ちで英文科へ行ったのですが、音楽のアルバイトを始めたら、とにかく音楽のほうが面白くて。
 戦後すぐ、仏教関係の作詞・作曲家がものすごく活躍したことは忘れてはいけないと思います。日本が戦争に負けて、戦時中は西洋の歌は駄目だと言っていたのに、西洋の歌がどんどん入ってきた。「メリーさんの羊」をはじめ、「十人のインディアン」とか。戦後、各地のお寺で幼稚園や保育園を経営するようになっていたのです。このままでは情操教育の面でキリスト教に負けてしまうというので、仏教界では本多鉄麿、賀来琢磨、深沢一郎、吉川孝一、曽我晃也、長田恒雄、安藤洵之介、深谷弘といった先生方が新しい仏教歌や踊りをを次々とつくられたのです。

CD「佛教讃歌集」

――このたび、CD [ 佛教讃歌集] という、アルバムが発売されました。これは駒澤大学児童教育部の同窓会が主体となって編集され、先生が監修されたのですね。

長田 これは私がキングレコードのディレクター時代の昭和二十九年から四十九年の間に録音されたものです。SP盤からEP盤、LP盤への推移もあり、モノラルからステレオになり四チャンネル、十六チャンネルと、音源の明瞭さに随分差がありました。それを今回はデジタルに入れ直し、雑音とかノイズを随分消して平均化しました。その作業は私が指示を出しました。私にとってこれはいわば自分が生んだ子どもと同じですから愛着がありますよ。

――駒澤大学児童教育部の六百人の同窓会員が投票して、二十五曲を選んだと聞きました。

長田 やはり皆さん、古い新しいに関係なくいい歌を選ばれていると思います。

――厳かな「法の深山」に始まり、陽気な「ヘイワオンド」まで入っています。戦後の焼け野原のなか、鶴見の大本山總持寺や駒澤大学の校庭で盆踊りをされたと聞きましたが。

長田 賀来先生から伺ったお話ですが、昭和二十一年、曹洞宗に社会部ができ、戦後初めてのお盆で、「明朗な歌と健全な踊りを与えて国民を勇気づけよう」と新曲を企画しました。サトウハチロー先生に詞をお願いして、十数人のキングレコードの専属の作曲家に競作させ、細川潤一先生のものが選ばれました。それで第一回の発表会をかねて盆踊りを總持寺で行ったのです。その際にNHKが全国に放送し、今のように全国的に盆踊りが復活しはじめたわけです。

――歌は一人ひとりの方がたの心にたくさんの思いを呼び起こし、時代を超えて受け継がれていくものなんですね。最後に先生のこれからのお仕事の展望をお聞かせください

長田 やはり音楽の仕事が一番です。このたびの震災で被災された方、未だご不自由な生活をされている方は本当にお気の毒です。だからみんな元気が蘇るような歌、美しい、心が癒やされるようなメロディー、そういう本物の歌をこれからも作っていかなくてはいけないと思っています。九十歳になろうが百歳になろうが、一生現役です。

――ご活躍を楽しみにしています。ありがとうございました。