平成二十五年
謹賀新年 専祈貴家萬福多幸
正月特集 曹洞宗管長・大本山永平寺貫首 福山諦法禅師に聞く
永平寺の宝は生きた仏さま
福山諦法
(ふくやま・たいほう)
昭和7年生まれ、80歳。
東京出身。11歳で愛知県新城市鳳来に学童疎開。
愛知県豊川の妙厳寺(豊川稲荷)の修行僧になる。
旧制豊川中学を経て駒澤大学。
40歳で豊川妙厳寺住職。
永平寺副貫首をへて、2008年1月19日、永平寺第79代貫首に就任。
曹洞宗管長
福井県吉田郡永平寺町志比、三方を山に囲まれた深山幽谷の一角、山裾をかけあがるかのように堂々とした七堂伽藍が姿をあらわします。曹洞宗大本山永平寺。道元禅師によって寛元二(一二四四)年に開かれたこの寺は、古色の中に清々しく凛とした静寂をみせています。
そのしじまの中に曹洞宗の第一修行道場として、開創以来、ひたすら変わらぬ厳しい禅の修行に打ち込む修行僧の姿があります。日本のみならず世界中にその名を知られる永平寺は、禅を志す人々にとって、あこがれの地であり永遠の聖地なのです。
今回は道元禅師から数えて七十九代目、曹洞宗管長・永平寺貫首・福山諦法禅師にお話を伺いました。「和わ
光こう同どう塵じん」という禅語があります。徳の高い方がその片鱗を見せることもなく、私たち市井の人間と温かく交わってくださる。
その包容力と柔軟で洒脱なお人柄。日夜修行に励む雲水たちも、その変わらぬ慈しみのまなざしがあるからこそ、安心して修行にはげむことができるのでしょう。
インタビュアー
石原恵子(いしはら・けいこ)
地域情報紙『りんかいBreeze』『BRISA』編集長
――永平寺貫首としての今年の抱負をお聞かせください。
福山 永平寺がこの一年、何ごともなく無事で、その間に素晴らしい修行僧が続々とそだっていくことが、私のこころからの希望であり、目標ですね。
――曹洞宗は「人権・平和・環境」というスローガンをかかげています。一昨年の東日本大震災のときには、それが被災地救援の取り組みにも反映されたと思いますが。
福山 震災があるなしにかかわらず、われわれ仏教徒は人権、非差別をモットーにし、世界人類の平和を祈る。これは当たり前のことです。環境もまたみんなで護り、つくるものです。東日本大震災で亡くなられた方々には心からお悔やみ申しあげ、甚大な被害を受けた方々には改めてお見舞い申し上げます。
宗門では「向き合う 伝える 支え合う」を旨としております。一仏両祖の教えは、ひとえに衆生救済にあります。あの震災のとき、幸いにして壊滅的な被害を免れた現地の曹洞宗のお寺さんは、被災した方々を受け入れ、寒さの中、温ぬくもりを分かち合い、一生懸命に支えあって暮らしておりました。私もあの震災の一カ月後に被災地にお見舞いにまいりました。
――実際に現地に行かれたのですね。
福山 山の上のほうにあって幸い津波を免れたお寺さんには一時、四百人ぐらいの被災された方々が来ておられたのですが、皆平等に仲良く互いを思いやって共同生活をされていました。
私が帰りに、何気なく自然に手を振っておりましたら、子どもたちがわあっと寄ってきて、握手、握手、握手。そのうち、大人の方々まで寄ってきて、もう涙を流して握手してくださるのです。私が行って、これだけ喜んでいただけるなら、本当にお見舞いに来て良かったと思いました。
――永平寺の禅師さまが来て下さったということが、被災された方々の大きな心の支えになったのですね。
東日本大震災で被災された方々を見舞われた禅師様
七百五十年以上変わらない永平寺の修行
――厳しい修行で知られる永平寺ですが、雲水さんたちの教育の中で最も誇るべきものはなんでしょうか。
福山 それは、御開山道元禅師以来の曹洞禅の教えそのままの修行を、今でも護りつづけているということですね。全然変わらない。変えない。もうそのままを行じているということです。
朝早くからの坐禅に始まり、本堂でのお勤め、粥座。粥座というのは朝食ですが、これも大切な行持です。それが終わるとすぐ山内の作務、掃除ですね。そういった修行が、毎日続けられている。七百五十年以上前にご開山さまが直接弟子たちに示された通りの修行を、そのまま今でも続けているということが一番の誇りですね。
――七百五十年以上前と寸分変わらぬ行を続けていらっしゃる。それだけで深く感銘せずにはいられません。
福山 京都、奈良をはじめ本坊の大きなご寺院さんは、建物自体が国宝級であったり、国宝の仏像があったり、どこでもそういうものが特徴としてありますが、永平寺には国宝の建物もなければ国宝の仏像もありません。
永平寺にあるのは生きた仏さまなんです。日々修行に励む雲水、修行僧たちこそ、生きた仏です。七百五十年以上前からずっと続く毎日の修行生活、それこそが生きた仏の生活なのです。修行してだんだん悟りに近づいていくといったことではないんです。坐って坐禅をしている、そのままが仏です。如法に食物をいただいているその姿が仏です。これが永平寺の誇りですね。
わたしもいじめられっ子だった
――今、日本では年三万人を超える自殺が報告されています。また学校では子ども同士のいじめも後を絶ちません。みんなが共に安心して生きるためには、どうしたらいいのでしょうか。
福山 今、日本には物があふれ過ぎている。そうすると、様々な誘惑が多くなって人間の心にも生き方にも次第に迷いが生じてくる。だから一つの目標に向かってまっすぐ進めず右往左往することになる。一体自分は何をやればいいのか。自分が今生きているのは必然性があって生きているのか、あるいは、ただ偶然に生まれてきたから生きているのか、そういった疑問に取りつかれてしまう。
そのときに、自分一人が生きようが死のうが、何の関係もない。こんなつまらない世の中、生きている意味はないと思って死んでしまう。そういう人たちが後を絶たないのは、現代人は正しい宗教というものに触れる機会が少ないからだと思います。
『修証義』第五章には、「願生此娑婆国土し来たれり」とあります。じつは私たちは自ら願ってこの世に生まれてきたのです。ですから、「此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし」と重ねて示されているのです。
それにしてもいじめによる子どもの自殺ほど悲しくおぞましいものはありませんね。いじめられている子は、先生にも親にも言えないのですよ。いじめられっ子なりにプライドがあるから、ぎりぎりまで我慢してしまう。
私も小学生のころは、いじめられっ子だったんですよ。
――え、ほんとうですか。
福山 ええ。どちらかというといじめられっ子で隅っこのほうで小さくなっているほうでした。やはり、先生は気がつかなきゃいけないし、親もね。朝、学校に行こうとするとお腹が痛くなるとか、そういうことを言い出したら、親が、おかしいこれは何かあると、悟らなくてはいけないと思いますね。
まず先生、親が気をつける。そしていじめられた子も勇気を出して、それを言わなくてはいけない。まわりの子もいじめのサインを見逃さず、声をあげることですね。
学童疎開から、豊川稲荷の小僧へ
――禅師さまは東京でお生まれになったと聞きました。
福山 荒川です。当時は国民学校と言いましたが、戦争中に学童疎開というのがありまして、東京にいると危ないから小学校四年生から六年生は地方へ疎開しなさいという命令があった。集団疎開と縁故疎開と二とおりありましてね。私は縁故疎開です。
――ご親戚か何かご縁があったのですか。
福山 私は愛知県の山奥へ疎開しました。父の遠い親戚だったようです。
――どうしてお坊さんになられたのでしょうか。
福山 小学校を卒業すれば、次は旧制の中学校ですが、山奥に疎開したものですから、遠くて中学校へ通うことができなかった。それで、豊川にある妙厳寺、通称豊川稲荷という大きなお寺の小僧になって、そこの中学校へ通ったのです。衣を着て町へ出るのが恥ずかしくてね。なかなか出られなかった。
――豊川稲荷では昭和三年から、境内で夜間中学校を経営されていた。今の豊川高校の前身ですね。町に出るというのは、托鉢ですか。
福山 それもあるけど、お葬式とか、買い物に行くこともありました。
――小さい頃から、お母様お父様と離れていらしたのですね。
福山 今思うと、両親もよく離したと思いますが、当時は空襲やら何やらで大変なときでした。疎開していなければ、三月十日の東京大空襲でどうなっていたかと思います。私が疎開してしばらくして、父母も山の中へ一緒に避難してきましたが、ほんの二、三カ月一緒にいただけで、あとはずっとお寺の生活でした。
――妙厳寺にいらっしゃって中学を卒業し、それから駒澤大学に。その当時はどんなご様子でしたか。
福山 東京の赤坂に妙厳寺の出張所があるんです。
――よく芸能人の方が初詣に行ってご祈祷いただく豊川稲荷東京別院ですね。
福山 そうです。そこでも修行を離れるというわけにいきませんでね。朝、偉い人がお勤めしている間に、その部屋を掃除したり、大学から帰ってくれば、まきで風呂を沸かす。その当番だった。だから普通の学生のように悠々とはいかなかったですね。
――夜も坐禅をしてお休みになるわけですか。
福山 いや、夜は勉強していましたね。
――大学を終えられて永平寺に安居されたわけですね。当時はどんな感じでしたか。
福山 大学時代はそれなりによく勉強したと思うのですが、永平寺へ来てみると、真反対。「不立文字、教外別伝」だから、余計なことは考えるな。ただ坐れ。無心に坐れといわれて、ひたすら坐禅一本。随分矛盾を感じましたね。
――そうすると、ご自分がどんどん変わっていかれた?
福山 変わっていかざるを得なかったですね。でも、いろいろ事情があってね。親も老いて面倒を見なければいけないし、そんなに長く永平寺にいるわけにはいかなかった。もっと長くいたかったのですが、結局、永平寺は一年半で送行しました。
健康がいちばん
――それから妙厳寺のほうに帰られたわけですね。商売繁盛の祈祷所として庶民信仰を集める豊川稲荷は日本三大稲荷の一つと伺っておりますが。
福山 私が住職をしたのが昭和四十七年、ちょうど第一次オイルショックのときです。またバブルの時代でもあって、東名高速道路ができ、新幹線ができという、そういう交通の便利さもあって、私がいたころは参拝者でずいぶんにぎわっていました。まだ戦後の荒廃が残っていた時代だから、何かにすがるというか、みなさん、信仰を求めていたのでしょう。
――そのとき、禅師さまは四十歳ですね。若くしてご住職になられたのですね。
福山 師匠が突然遷化されたものですから。もう晴天の霹靂と言うかな。本当に考える余裕もなく、縁があって豊川の住職となることになったのです。
――そのときはどんなことをお考えになったのでしょうか。
福山 色々ありますが、自分のことで言えばまず健康でいなくては何もできない。後から考えれば別にどうということはないんですが、過労で死んでしまうのではないかなんて思いました。役寮さんや信者さんに、健康のためにゴルフをと薦められましたが、みんなに薦められると、へそ曲がりなせいか、「嫌だ。やりたくない」と、何もやらなかった。
それが偶然、新聞を見ていたら、小型船舶操縦士の講習がある。以前から船には関心を持っていましたから行くことにした。ちょうど行持に差し障りの無い夜の時間に講義が受けられたのです。それで一カ月半、こっそり行って免許を取りました。(笑)
――何級の免許をお取りになったのですか。
福山 あのころは一級、二級もなく一種類だけ。四十五日間しっかり勉強しました。四日間勉強して五日目に試験、また四日間やったら試験という具合で、幸いにして取れました。
――マリンスポーツ、おしゃれですね。操縦資格を取って、海に出られましたか。
福山 たまには友人に操縦させてもらいました。駿河湾、静岡県の三保あたりなどをね。気分転換には良かったけれど、陽に当たり過ぎる。(笑)まあ、ありきたりなものはやらなくて良かったけれど、船に乗るなんていうのも、これまたちょっと奇抜過ぎてね。
――今でもお乗りになりますか。
福山 もう免許は返上しました。車の免許もね。
――若くしてご住職になられ、ご苦労もあったことと思います。
福山 この永平寺などでは監院という山内をすべて取り締まる方がいて細かいことはすべてやってくれますが、妙厳寺では住職が直接何でも、お客さまへのご挨拶、いろんな難しい問題の判断などやらなくてはいけない。立場上やむを得ないことでした。
でも、今はつらいことはみんな忘れました。むしろ、若いころは、ちょうどバブルの時代でしたから、それが幸いして、経営していた学校を新しい校舎に建て替えることができて、それは大変嬉しかった。そういういい思い出ばかりが残っています。
豊川妙厳寺経営の豊川高校
イチロー選手に喝?
――毎年、イチロー選手がお見えになったそうですね。
福山 そう、高校の野球部時代からお正月になると豊川稲荷にお参りに来ていました。そのころはみんなと一緒に来るから全然目立たなかった。プロになってだんだん立派になって、お正月には私と新年のご挨拶をしていくようになった。もうスポーツ新聞の記者から追っかけ連中までたくさん来て大変でした。
一番最初に来たとき、帽子を被っているのかどうか分からなかった。運動帽を前後逆に被って、前のほうから髪の毛が出ていたもので。そのうちに、気付いたけど、ついつい注意するタイミングを逸しましてね。
二年目に来たときに、今度はちゃんと被っていたので、「女性はいざ知らず、男というのは座敷へ入ったら帽子を取るものですよ」と言いましたら、「これはおれ流」と言って取らなかったのです。でも、三年目に来たときはちゃんと取って来た。
――イチロー選手くらいになると、注意してくださる方もいなくなるでしょうからね。
福山 そうですね。
――ご住職になられたころから四十年が経っています。信徒さんは増えていますか。
福山 今は、どっちかというと減ってきている。さっき言ったように、物があふれて何の不自由もなくなると、神仏への信仰心も薄れてくるんでしょうか。
心に念じて虚しく過ごさず
――東日本大震災以降、みんなの気持ちが仏教のほうに向かっているようにも思われます。本屋に行きますと、仏教書がたくさん並んでいます。
福山 それはいいことですが、単なる困ったときの仏頼みでは困りますね。仏教というのは本を読んだり説教を聞いて感心しているだけでは駄目なんです。やっぱり自分のものにしてほしいですね。
それにはやはり、本で読んだり説教を聞いて得た知識を実践するということが大事です。馬に水を飲ませようと思って引きずってきて、水の中へ首を突っ込ますことはできても、馬が水を飲む気にならなければ水は入っていかない。仏教を学ぶ一人ひとりが、自ら実践するのだという気持ちにならなければなりません。
「流汗悟道」という言葉があります。知識は知識でしかありません。物事の真実は、それを実践し、自ら額に汗をかいて、体で感じて初めて会得されるのです。仏教の教えは尊いものですが、その教えを行ずること、実践することによって仏法、仏道になるのです。具体的には呼吸を調え、心を調える。坐禅を行じている姿がそのまま仏なのです。
――ほかにも、大切にされているお好きな言葉は?
福山 ご開山道元禅師さまの『傘松道詠』という歌集にある「いたずらに過ごす月日は多けれど 道を求むる時ぞ少なし」。これは『観音経』の中にも、「心念不空過」、心に念じて虚しく過ごさずという言葉と類似の意味ですが、わたしはそういうのが好きです。難しいことは私にもわかりません。「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」といった平易な言葉がいいですね。
――とてもわかりやすく、ありがたいお言葉です。ところで、永平寺では七百五十年以上変わらない修行が続けられている一方、今や大勢の檀信徒や観光客の方も参拝に来られるようになっています。
福山 そうですね。もっともっと来てほしいですね。深山幽谷の永平寺に参籠いただき、何を感じて帰るかは個人によって差があると思いますが、混沌とした今の社会にあって、正身端坐して己を省み、あるいは世相を観ずるときを持つことは必要なことです。
雲水たちの厳しい修行に少しでもふれて身をもって感じていただきたい。そして、皆さんの毎日の生活の中に少しでもいいから永平寺流の生き方を取り入れていただければありがたい。それがご自分を高めることになると思います。
――私も数年前に一人で初めて来ました。ちょうど涅槃会のときでした。
福山 ああ、二月ですな。
――はい。承陽殿での様子を廊下から、瞬時ですが拝見できるというチャンスに恵まれました。ひたすらに五体投地を繰り返すお坊さんの姿を拝見して、身の引き締まる思いをしました。
福山 そういうふうに何か一つでも、永平寺へ来て得るものがあるとありがたいことです。
――ありがとうございました。
お正月の参拝者で賑わう豊川妙厳寺