読者からの質問に答える(5)

来世は存在するのか?
…無我思想と輪廻思想の矛盾…

最近の子どもたちに対する意識調査では多くの子どもたちが人間は死んでも生き返ると答えています。
それが命を軽視する風潮を反映していると危惧する向きもあります。
仏教では来世をどう説いているのか、長桂寺住職・内藤英昭師に答えていただきました。
質問者は読者の田造 篤氏です。



内藤英昭(ないとうえいしょう)

一九三八年生まれ。
一九六〇年、駒澤大学文学部国文学科卒。
曹洞宗特派布教師を経て、現在、保護司、調停委員。
一九六四年より長野県伊奈市長桂寺住職。

田造 篤(たづくり あつし)

米国カリフォルニア大学経済学部卒業。
大学で哲学を勉強したときに、初めて仏教を知る。
貿易会社を退職してから、仏教の研究を始め、その研究結果に基づき、日本の僧侶仏教の改革の必要性を日本仏教界に訴えることを続けている。
(横浜市在住)


お釈迦様の沈黙の意味

田造 お釈迦様は一切のものには不変で固有の我は存在しないという無我思想を説かれたのに、一方では人間は生死を繰り返すという輪廻(りんね)思想を説かれたと伝えられています。ただし、この輪廻思想は修行者には説かず、在家の人々のみに説いたと伝えられています。これは説く相手の能力に応じて方便として対機(たいき)説法をしたものであると言われています。私はこれが事実かどうか疑問に思うのですが、もし事実とすれば、二つの思想はまったく矛盾しているように思うのですが。

内藤 仏典によると、ある弟子がお釈迦様に、死んだ後はどうなりますかと聞いた。すると、お釈迦様はそれに対して何も答えなかった。それを「無記(むき)」と言います。そして、そういうことよりも今どうやって立派に修行して悟りを開くか、それを考えなさいとおっしゃっている。ところがその一方、『法句経』などでは、「悪いことをした人はこの世で憂い、来世でも憂い、二つところで共に憂う」と説いています。矛盾しているようですが、これは今おっしゃったように、相手が出家か在家か、あるいは相手の理解能力に応じて説き方を変えているということでしょう。

田造 今の日本の仏教ではどう教えているのですか。

内藤 それは宗派によってそれぞれ違うから実際、檀家の人たちに「死んだらどうなるか」と聞かれたら返答に困る。難しいところです。例えば浄土宗の人たちに、来世とか極楽浄土をどう説くのですかと聞いたら、それはあると仮定して説かなければ布教ができないと言っていました。永平寺を開かれた道元禅師様も出家者に対しては来世というようなことはあまり言われなかったけれど、在家の人に対しては輪廻を前提とした説き方をされています。例えば『正法眼蔵』道心の巻では、死んで次の世に転生するまでの中有(中陰=四九日)について説かれています。
 曹洞宗檀信徒にも浄土信仰者が多く、私自身は来世があると信じている人にも「来世はない」と信じる人にも祖先の想い、貴方の想いは確実に子孫に残って行きます、と説いています。

田造 私個人の考えとしては、死後に別の世界があるかどうかというようなことは、どんなに科学が発達しても解明できないのではないかと思います。やはりお釈迦様のように、死後のことは分からないというのが本当ではないでしょうか。あるということも証明できないし、ないということも証明できない。それは宇宙がどうして発生したかというような問題は、科学的に仮説は立てられても証明はできないようなものでしょう。そうすると、人間はわれわれの計り知れない何か大きな意志が働いて生まれたのではないかと考える。それを神とか仏と言っているのではないでしょうか。ただしここで言う仏というのは、お釈迦様の説かれた教義を信仰し実行して悟りに達した者という意味ではなく、仏を超人的な宇宙創造者と見なした一部の大乗仏教の言う仏です。例えば、真言宗の信仰する大日如来は宇宙を創造する宇宙根源の仏であるという考え方や、日蓮宗の信仰する久遠実成(くおんじつじょう)の仏である釈迦如来は宇宙の生命やエネルギーそのものであるという考え方などですが。

内藤 お釈迦様がなぜ死後のことをおっしゃらなかったかというと、死後のことよりも今生きている人間の現実の生き方を問題にされたからです。私はお彼岸のときなど、よく「六道輪廻」の話をします。そういうと輪廻を肯定しているように思われるかもしれませんが、そうではありません。「六道輪廻」というのは人間をはじめあらゆる生き物は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つのいずれかの世界に生死を繰り返す。悟りを開かないかぎり、その輪から解脱することはできないというインド古来の考え方です。私はこれを死後にそういう世界に行くのではなく、現実の今の人生に六道はあるのだと説きます。世界には、お互いに憎しみ合い争いをやめない人々、日々飢えに苦しんでいる人々などがたくさんいます。現実に六道がそのまま社会には存在するのです。そしてさらに深く考えれば、六道というのはわたしたち一人一人の心の中にあるのです。私たちの心は日々、人を愛したり憎んだり、笑ったり泣いたり、六道を輪廻しているのです。ですから、そのことを深く自覚して、自らの心をつねに清らかに保って生きていくことが大切ですよ、と私は説いています。

四苦八苦を諦めるということ

編集部 輪廻を現実の社会の問題、あるいは一人一人の心のありようの比喩だと考えれば分かるような気もしますが、文字通り、永遠に続く命のことだとすれば、いろんな問題を含んでいるように思いますが。

内藤 そのとおりです。かつてはこの六道輪廻を事実として、人はこの世での行い次第によって動物や地獄やいろんなところに生まれ変わるのだ、と説かれた時代もありました。しかし、これは非常に危険な思想でもあるのです。現実のさまざまな不幸に見舞われている人に対して、それはあなたが前世で悪いことをしたからその報いを今受けているのだというような、いわれのない人間差別を生む土壌ともなりかねません。

田造 長い仏教の歴史のなかではさまざまな考え方があるわけですね。

内藤 そうです。ことにインドからスリランカ、東南アジア諸国に伝わった南方仏教と、シルクロードを経て中国、日本などに伝わった大乗仏教とでは、考え方や形態がかなり違っています。一部には、大乗仏教はお釈迦様が説かれた教えではないという人もいますが、私はそうは考えていません。あくまでお釈迦様の教えを生かしながら、一般大衆の救済のために、少し輪を広げた考え方から出てきたのだと思います。いずれにしても、お釈迦様の教えが伝わっていった先々には、それぞれ土俗の宗教があったわけです。仏教はそれを否定することはしなかった。それぞれの国で土俗の宗教を包括する形で伝わったので、長い歴史の中でそれぞれ独自の変化を遂げたことは当然です。日本では民族固有の信仰「祖先崇拝思想」と仏教が合体しているようなものです。
 しかし、仏教であるかぎり変わっていない部分もあるのです。それはお釈迦様が説かれた「一切皆苦(いっさいかいく)」、一切が苦しみのもとであるという教えです。そしてその苦しみには「生老病死(しょうろうびょうし)」の四苦と、それに「愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)」を加えた八苦がある。お釈迦様はこの世はそういう苦しみの世界だと説かれた。そしてそういう苦の世界に生まれて来たからこそ、一人一人の人生は非常に尊い。その尊い人生をどう生きるのが一番良いか、ということを説かれたわけです。

田造 それは苦を苦と思わないように修行し、悟る努力をしなくてはいけないということですか。

内藤 というよりも、人生が四苦八苦であることは誰もが認めざるを得ないことですね。ですから、これはあきらめなければならないわけです。

田造 お釈迦様はあらゆるものは因縁によって成り立っていると説いておられますね。そうすると、例えば「生老病死」というのもそれぞれ自然の因縁としての現象なのだから、考えても仕方がない、あきらめろ、忘れろとおっしゃったのですか。

内藤 いえ、例えば野球でいったら、相手に大きくリードされたまま九回の最後の攻撃になってしまって、これはもうだめだと言ってお客さんが帰っていく。そういうのが一般的な意味でいう「あきらめ」ですよね。そうではなくきっちりと物事を見通す、現実を見つめ現実をそのまま受け止める、そういう「あきらめ」がある。投げ出してしまうのではなく現実を受け止めるのが仏教でいう「あきらめ」です。漢字では諦めと書きますが、これは「真理を明らかにする」という意味です。

欲望は無くすべきものか?

田造 内藤さんは本山で禅の修行をされて、そういう諦めとか無念無想の境地を悟られたのですか。

内藤 いや、私は坐禅をして無念無想になるなどということはあり得ないと思います。私どもの坐禅は、まず姿勢を調え、息を調えるということです。そうすると確かに気持ちは落ち着きますが、すぐまたいろんなことが頭に浮かんでくる。そういうときにどうしたらいいかというと、それにこだわらずに放っておくことです。雑念を断ち切ろう断ち切ろうと思うと、その断ち切ろうという思いに支配されてしまう。雑念があろうがなかろうが、それにとらわれず、ひたすら坐禅する。それを「只管打坐(しかんたざ)」と言います。

田造 よく禅の修行をすると、偏らない心、こだわらない心、捕らわれない心の境地に達すると言いますが。

内藤 そうですね。非常に広い心が養われるということは言えるでしょう。しかし、それが坐禅の目的ではない。坐禅は何かの手段ではないという禅の指導者もいらっしゃいます。

田造 坐禅は手段ではなくて、坐禅すること自体が尊いことだということですか。

内藤 そうです。それを「無所得」の禅と言いますが、でも私は「有所得」の禅でもいいと思うんです。坐禅をすると非常に心が落ち着くし体の調子もよくなるのは事実ですから。

田造 それから坐禅をすると、「無欲」になるというようなこともいいますが。

内藤 無欲ね。よく勝負事で「無欲の勝利」なんてことをいいますが、それも私に言わせれば、あり得ないと思う。勝とうという執念がなければ勝てるわけがない。

田造 欲というのはつまり欲望ですよね。人間には生まれつき食欲もあり、それから所有欲も性欲も名誉欲もある。それをゼロにしてしまったら生きていけないと思うんです。だから私は、お釈迦様も欲望を全部否定されたのではなく、我執に陥らないように節度をわきまえて生きていけと言われたのではないかと思うのですが。

内藤 まったくその通りです。それはお釈迦様の『遺教経(ゆいきょうぎょう)』、道元禅師様の『正法眼蔵』八大人覚(はちだいにんがく)の巻、どちらも最後のお説法ですが、その中で強調されていることです。欲望を無くすのではなく、いかにコントロールするかということが仏教の重要なポイントだと示されています。

(次号につづく)