人生は『あ・い・う・え・お』
宗派を超えたユニーク和尚の考現学的説法
曹洞宗針倉山永林寺住職 佐藤憲雄
十日町市・智泉寺で説法中の佐藤憲雄師
日本全国のみならず、世界中から新潟県魚沼市へ大勢の人がある方に会いに来る。その方こそ、曹洞宗針倉山永林寺二十五代目佐藤憲雄住職である。自らを愚多羅和笑と呼ぶ佐藤住職のお話は、元気と笑顔をくれる「言葉遊びのオモチャ箱」。
「仏教で「頑張る」という言葉は「我を張る」。人はどうでもいい、自分さえよければという発想ですから、仏教者は「頑張る」と言う言葉を嫌います。でも、私は「顔晴る」に字を変えてみた。この字にすると非常に良い意味になるでしょう?」
心をポカポカにしてくれるのはお話だけでない。佐藤住職考案のユニークな品々にも。「高校受験のお子さんがくぐる姿はほほえましいけれど、選挙前日に演説を終えたその足でこの木をくぐる、いい大人の姿はおっかしくってね〜」と説明する、巨木の中央をくり貫いてトンネル状にして通り抜ける「合格祈願」の彫刻物。「これは金のなる木ならぬ鐘の鳴る木。いくつか鐘がぶら下がっているけど鳴らない鐘もあるんです」と、合笑の樹と名付けた鐘を鳴らす佐藤さんの笑顔は、まるで少年のよう。
「参詣してくださる方へは、「ニコニコ宗」と「皆の宗」と「曹洞宗」の3つの宗派にお参りしたことになるから、一番ご利益がある寺なんだって言ってるんですよ」と、会う人すべてを笑顔にしてくれる佐藤住職。実は壮絶な闘病生活を克服したのだった。
昭和五十九年に脳血栓で倒れ、一時は生死を彷徨うほどの状態に。闘病生活をしながら、色々なことを考えた。今の日本人には宗教心が失われている。寺でじっとしているだけでは駄目だ。積極的に呼び寄せる方法を考えよう、と。
まず、言語障害を克服すべく日本初のテレホン法話をスタート。また、永林寺の文化財である和製ミケランジェロとして有名な幕末の名匠・石川雲蝶を一般公開することにした。そして、仏教の各宗派は言うに及ばず、キリスト教でもイスラム教でも、なんでもござれの宗派「皆の宗」を標榜した。
「ニコニコ宗」に関しては、新潟県知事から表彰された。地元の警察へ講演会に行ったが、どうも警察官の元気がない。そこで、この町でニコリともしない人を見かけたら逮捕。一週間留置所で生活してもらい、警察官が笑顔の講習をする。その講習を受けた後、3日間の笑顔の強制ボランティア、または警察署に千円以上の「買笑金」を支払う。このお金は全額福祉団体に寄付される。以上の条件で「ニコニコ宗」を作りたいと新潟県知事へ上申書を出したところ、「実に面白い」と知事自らが寺に来て「ニコニコ宗」と名乗ることを許可されたそうだ。
「新潟県中越地震では寺中がめちゃくちゃになってしまって……。仲間や檀家の皆さんが結束してくれて、本当に助けてもらいました」
平成十六年十月二十三日。震度6強の新潟中越地震により、この地方は大打撃を受けた。しかし、ピンチをチャンスへと変える佐藤住職。「震災の修理修復でもないと取り外すことは出来ない幕末の名匠石川雲蝶の作品を一人でも多くの方々に知ってもらい、永林寺に足を運んでもらうチャンス」だと、東京で『石川雲蝶展』を開催して大反響を呼んだ。今年の秋には震災復興の落慶法要にこぎ着ける。
「仏教は考古学ではだめ。現在からの視点で見る考現学じゃないと」というユニーク和尚さん。そんな彼の元へは、曹洞宗のみならず宗派を超えた講演依頼が殺到している。
「人生は『あいうえお』。明るく、生き生き、美しく、笑顔で、面白おかしく。そうやって生きたら人生って楽しくなりますよ」。
取材・まさとみ☆ようこ
石川雲蝶作「天女」
雲蝶と永林寺住職(二十二世弁成和尚)との出会い
嘉永5年(1852年)堀之内・永林寺再建のため大工棟梁関与兵衛と、三条に大工道具金物類を買いに来ていた二十二世弁成和尚は雲蝶と出会う。
酒を酌み交わしているうち、弁成和尚の大博打にのせられた。雲蝶が勝ったら大金を支払おう。
和尚が勝ったら永林寺に来て、本堂内の彫刻を手間暇いわずに彫ってくれと……。雲蝶は賭けに負けた。
それから3年たって、雲蝶は永林寺に赴き、欄間などの製作に入る。
永林寺 〒949-7403新潟県魚沼市根小屋1765