朗読から心の力を養う



    虹の足

                  吉野 弘

雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
―――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが――。

   *出典『現代詩文庫119続・吉野弘詩集』思潮社68〜69ページ


解説  江田 浩司

 この詩の作者、吉野弘は大正15年山形県酒田市に生まれました。昭和20年、入隊日の5日前に敗戦を体験し、大きな衝撃を受けています。戦後は労働組合運動に専念しましたが、過労で倒れ、3年間療養生活を送っています。昭和28年同人誌「櫂(かい)」に参加し、以後現在まで旺盛な詩作活動を続けています。吉野弘の詩の根底には、弱者への深い眼差が溢れ、やさしさが湛えられています。しかしただやさしいだけの詩ではなく、生きていくことの困難さや、厳しさをも同時に訴えかけてくる、言葉の力を内包しています。吉野弘が難しい言葉を使わないで、人生の真理を表現できるのも、人間に対する鋭い観察眼が発揮されているからです。

 「虹の足」のテーマは何でしょうか。言うまでもないと思います。本当の「幸福」とは他人には見えて、自分には見えないものであること。この詩にはそのような真理がやさしい言葉で語られています。私たちは自分が「健康」なときには「健康」であることを意識しません。しかしいったん「病気」になると、「健康」であることがいかに尊いものであるか身に染みて理解します。

 多くのお金や地位を得ることは自分の目に見える「幸福」、世俗的な成功ではあるでしょう。しかしお金や地位を手に入れることで、人間は本当に「幸福」になれるのでしょうか。むしろそのような「幸福」を手放すことの不安に苛まれることの「不幸」をも、同時に生み出してしまうのではないでしょうか。

 人間には「幸福」と「不幸」の量が比例していると言われます。私たちが生きていくことはけっして「幸福」なことばかりではありません。しかし私たちの気付かないところで、本当の「幸福」が私たちをやさしく包んでくれていることを、吉野弘の詩は教えてくれているのです。


「続・吉野弘詩集」
(現代文庫119)思潮社刊
定価1165円(税別)



江田浩司
1959年岡山生まれ。現代詩歌作家。
詩、短歌、俳句の枠を超えて、詩歌の総合的な表現を試行する。
歌集『メランコリック・エンブリオ』詩歌集『饒舌な死体』現代短歌物語『新しい天使』など。