名物和尚の誌上説法
福井県西方寺住職 宮崎慈空
宮崎慈空
1943年高知県生まれ。
神戸商科大学卒業。
高校教師、出版社勤務を経て1978年出家得度。
諸方行脚の後、1993年より現職に。
宇宙の真理を明らかにし
人生苦を解決する般若心経
般若心経二七二文字――この短いお経に、実は宇宙と人生の根本問題を解決する大きな力が備わっています。仏教といっても、この心経一巻で事足りると思われるくらいです。少なくとも私の人生はこの心経によって救われました。
宇宙と人生の根本問題といえば、生死(しょうじ)の問題ということになるでしょう。
天才物理学者といわれるS・ホーキング氏が「まだ、宇宙がなぜ始まったのかという答えを私は見出していません」と語っているのを読んだことがあります。何故私を含めこの世界は「有る」ことになったのか――これが生の根本問題です。
また、人は必ず死ぬということ、そしてその死の正体を明らかにしなければ、屠場に曳かれゆく牛の苦悩から逃れることはできない。――これが死の問題です。
私が生死の問題にのっぴきならぬ状態で遭遇したのは、三十代前半の時、身近に感じていた人が病死した時でした。喪失感と自己嫌悪――これで無常が骨身に徹し、世界の景色が一遍に白黒画像に色褪せてしまったのです。死と背中合わせの生の意味とは一体何なのだろう。心も体も移ろい易く頼りにならない。すっかり落ち込んで、出口のないトンネルの中をさ迷うような感じでした。
しかしどのような人生苦にあっても必ず光は射してくるし、必ず救いの道は開かれるものです。しかも苦悩が根源的なものであればあるほど、救いもまた絶大なものになるとさえ言えるでしょう。
ある日たまたま手にした般若心経の中に「無眼耳鼻舌身意」と書いてあります。眼や耳が現実にありながら、それらは全て無いというのが真実の有り様(実相)なのだよ、と説かれています。生死を乗り越える真理がこの教えのなかにこそあるとその時私は直観しました。
以来私は毎朝坐禅をし心経を繰り返し読誦するようになったのですが、そうして数ヶ月後、確かに般若心経の教えそのものでしかない世界の実相が向こうから現前したのです。それは、道元禅師が「自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり」といわれた、実にその通りの様子です。
「無眼耳鼻舌身意」というのは、実は「無我の眼耳鼻舌身意」ということなのです。私達は日頃自分が自分の眼や耳を使って見たり聞いたりしていると思い込んでいるのではないでしょうか。しかし本当はそれ以前に、眼には物が自在に映ったり消えたり、耳には選り好みなしにあれこれの音が出入りします。心もまた縁に随ってコロコロと移り変わっていく、そういうものとして仕上がっているのです。「自分」という塊はどこにも捉えられません。物事が即今即今のそれ自体として円融無礙に展開しており、そのいちいちが光明を放つのです。柿の木に柿の実がなり梅の枝に梅の花が咲く、人の生き死にに関わりなく展開するそのもの自体のありのままの様子、どなたも迷うに迷いようのない世界です。「宇宙がなぜ始まったのか」??このような疑念を起こす主体が元より無い寂静の世界だったのです。
それまで人生の苦悩や重荷と感じていたものは「我」の上に積み重なったかさぶたのようなものでした。だから「我」が無いものとなれば、重荷も昨夢のように雲散霧消してしまう訳です。「照見五蘊皆空 度一切苦厄」??確かにこの一句の通りものの形も心の働きも実体なく底が抜けている??これが宇宙と人間の真相であり、それ故に古今東西の苦厄が根こそぎ救われたということです。
人生の苦しみは人さまざまのように見えますが、解脱の道は万人に共通です。ほとけは「舎利子よ」と呼びかけられて、実はこの私達一人一人に向かってもとより備わっている大安楽の道を説き示されているのです。