特集対談
現代人が今、必要とする「道」とは・・・!
明るい展望が見いだせない不安いっぱいの時代に、人はどう生きるべきか、というテーマによせて、作家中野孝次氏に一つの道しるべを示していただきました。先生は『徒然草』の愛読者で、「縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせん」ことを信条にされておられます。今日の存在を感謝し、作家活動に取り組まれるお姿は、清貧枯淡を尊んだ禅僧の姿でもあるかとお見受けしました。唐時代の趙州や洞山を慕わしく思われる中野氏と、鎌倉仏教史の研究に心を寄せる高橋秀榮氏との味わい深い対談です。
司会・横内武彦(編集部)
中野孝次(作家)
大正14(1925)年、千葉県に生まれる。東京大学文学部卒業。主な著書に、『ブリューゲルへの旅』(日本エッセイスト・クラブ賞)、『麦熟るる日に』(平林たい子賞)、『ハラスのいた日々』(新田次郎賞)、『清貧の思想』、『老いのこみち』、『幸福の原理』、『風の良寛』など。
高橋秀榮(金沢文庫長)
昭和17(1942)年北海道生まれ。駒澤大学仏教学部卒業、同大学院博士課程修了。現在、神奈川県立金沢文庫長。駒澤大学仏教学部講師。主な著書に『栄西・明恵』(共著・中央公論社大乗仏典シリーズ)、『金沢文庫資料全書』(共著)、『永平寺史料全書』、他。
死を憎まば、生を愛すべし
横内 本日のテーマは「道」です。「道」というと人や車が行き来する「道」もあれば、人が目的に向かって進む日々の行動の「道」もあるわけですが。
中野 「道」は限りなくあります。禅でいう「道(どう)」もあれば、老子のいう「道(タオ)」、華道、剣道などでいう「道」もあって、それぞれ違う。「道」といっただけではなかなか分かりにくい。それなのに、これほどまで「道」が求められているのはなぜか。それは、五、六十代の人たちが、これからどう生きたらいいか困っているからだという感じがします。この世代は高度経済成長のなかで効率と生産性ばかり追いかけてきました。その経済システムもそれを支えてきた雇用システムも今や根底から崩れてしまった。リストラ、企業倒産などが日常的に起こって、生活の安定が失われている。これから迎える老後をどうしたらいいか悩んでいる。そこで、安心(あんじん)を得る「道」を求めるのです。しかし、道を知らない。
高橋 たしかにそうですね。老いてくると、ごく自然に「無事」とか「安心」というような境地にあこがれを寄せるようになる。多少つらいことがあっても、身体に痛いところがあっても、今日一日なんとか平穏無事に暮らしたい、気分を安らかにして過ごしたい、と切に願うようになりますね。これもまた老いが求める一つの「道」でしょうね。
横内 安心を得る道はあるのでしょうか。
中野 いろいろありますが、分かりやすいのは『徒然草』における道ですね。こういう一節があります。「若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり」(第百三十七段)。「死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(第九十三段)。人間というのはいつ死が襲ってくるか分からない。常にそれを心において死を心得よ。しかし、それだからこそ、今生きているんだということを自覚しろというわけです。これは、兼好法師が『徒然草』の全体を通じて何度も何度も言っていることです。いつ死が襲ってくるか分からないということを、絶えず自覚すること。現代人が一番知らないのはそれですね。ぼくは、安心を得る一つの道は、しっかりと死を考えることだと思いますね。仏教の考え方もそうではありませんか。
高橋 そうです。とくに禅宗では、新年の元旦には必ず遺言を書けと教えられます。それを遺偈(ゆいげ)といいます。自分の心境をあらわす四句十六文字の詩を考えて揮毫(きごう)する。それを毎年繰り返す。元旦であれ死を見つめながら修行して行くというのが、禅宗の習いです。
中野 死を前提とするということはどういうことかというと、人にはみな長生きしたいという欲望がある。煩悩といってもいいですが、それを逃れないと、なかなか安心というところまで行かないですね。端的にいうと、人間は肉体、生命をもって生きている。この肉体は、絶えざる生老病死の因果のなかにある。この因果のなかにある肉体、生命というものをしっかりつかむ必要がある。因果になりきって、それを飛び越えて、永遠と今が一つになるような境地になる。それが、安心なんだと思います。
横内 永遠と今を一つにする方法は?
中野 それには、時間というものに対する考え方を変える必要があります。ふつう人間は、時間というのは過去から永遠の未来に向かって、棒のようにつながっていると考えている。それはいわばカレンダーの時間です。自分の外にある力で、そんなものは実は存在しないんですよ。人間が生きている時間というものは、昨日も明日もない。今日というけれど、今日も今しかない。その今というのは、自分が今ここにいるというこの時です。ところが人間は、どうしても自分の生死を外にあるものととらえて、自分が死んでもこの木は残るんだろうな、人生なんて儚いなんて考えるわけです。そうすると、もうだめなんだな。
高橋 暦に使われる人間になってしまう。
中野 社会生活をする上には暦も必要ですが、それは人間がつくったもので、一人一人が生きていく時間というのは全然別のものなのです。現代人はそれが分からないんですね。今しかない自分の時間に徹底するということができない。だから安心も得られない。棒のような時間の考え方をやめなさいと、ぼくはいつも言うんですが、それには訓練がいるんです。
安心を得るための訓練とは
横内 どのような訓練なのでしょうか。
中野 道元の『正法眼蔵』「有時」の巻にこうあります。
「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり」と。
時というのは、すでに存在である。それはなぜかというと、主体は人間だから。道元のいう時間は時計で測る時間ではないし、空間もまたデータで測る距離ではない。たとえば唐代の禅僧は自分が一尺といえば、世界が一尺になる。一丈といえば世界が一丈になるといっていますね。そういうものなんだ。自分が存在しているということは、時間であり空間であるから、それは伸縮するし、それだけではなく、そこに宗教性が入ってくる。
道元はこうも言っています。
「しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解会すべからず、飛去は時の能とのみは学すべからず」。
飛び去って行くのばかりが時の機能だと考えてはいけないというんです。つまり、自分の存在と永遠とが一緒になった今しかないということです。絶えず心のなかで、そういう考え方に直面していると、だんだん慣れてきます。理屈で考えるのではなく、そういうふうに感じる自分を創っていくのです。
高橋 そのためには、まず心をからにしておくことが必要ではないでしょうか。
中野 そうです。これまた訓練がいる。坐禅もそうだろうと思うんですがね。坐禅をやっていると、いろいろなことが頭に浮かんでくるでしょう。それを全部捨てる。そして深いところで呼吸する。ぼくはね、これを寝ながらやっているんですよ。両足を一尺くらい開けて、深呼吸する。腹に空気を入れてじっとしている。そして足の裏まで気が行くようにする。それから、溜めた空気を口から糸のように吐き出す。それを繰り返す。しばらくこれをやると、余計なことを考えなくなる。そういう状態が得られますよ。それは白隠の教えのなかにもありますが……。
高橋 気海丹田(きかいたんでん)の呼吸のことですね。調心、調息の行と同じですね。
中野 慣れてきてそれが自然な行為になれば、たとえば、今ここで死が訪れてもいいかと自問自答すると、それでもいいという気持ちになりますよ。始めのうちは、そういう肉体的な訓練でいいんですよ。近年、訓練とか修行ということばは日本では好まれないが、訓練とか修行なしに人間は人間にはなれない。それはどこの国でもそうですよ。訓練とか修行というものが絶対に必要なんです。肉体的な訓練、精神的な訓練、それは自分でやるしかないですね。他からは与えれられない。
高橋 そうですね。他人から押し付けられた生活や仕事ばかりしていると自分の正体を見失ってしまう。だから、老後になって、明日の自分の糧はなんだろうと、はたと考え込んでしまうことになる。
シンプル・ライフの勧め
横内 先生に今を生きる知恵を教えていただきたいのですが。
中野 わたしは大学の教師を辞めるとき、いつも、
「日暮れ道遠し、わが生、すでに蹉たり。諸縁を放下すべき時なり」(徒然草・第一一二段)
ということばを思い出していました。今こそ世の中の縁を捨ててしまうときだと。それが、老年を生きる心がけだと思った。自分の好きなように生きることにして、それをもう二〇年くらいやっていますが、テレビも見ず、電話にも出ない。毎朝四時に起きて机に向かい、日が昇ると犬を連れて散歩して、夜は十時半くらいには仕事をおしまいにする。まるで隠者ですよ。毎日毎日そういう生活をしていると退屈じゃないかという人がいるけれど、全然退屈じゃないですね。毎日毎日が新しい。「日々是好日」という感じですね。
そういうふうに感じるのも、訓練ですよ。今日しかないとなれば、今日が新しい。まっさらな新しい人生。昨日のつづきではない。今しかないというふうに感じるのも、そう感じるように訓練しないと。だから、ぼくは六十歳過ぎてもまだ会社のOB会なんかに行く人の気が知れない。かつての社会秩序の中にしか自分の身の置き場がないんでしょうが、老年になると、宇宙と向き合って自分自身を安心させるのが大事ではないでしょうか。
高橋 たしかに多くの人は、いつまでも社会的な地位にしがみついていますね。先生はそれを放下された。強靭は心をお持ちですよね。禅のことばに、「自己の本分(ほんぶん)に安住する」とありますが、その安住するという意味を深く会得できる人と、できない人がある。世相に応じてみんな生きているわけですから、われわれはつい世間に付和雷同して、右往左往してしまう。まず、しっかりと自分にとっての安心を確立することが大事でしょうね。それには、これからの日本人はできるだけ、物を捨てていくシンプルライフを目指すべきでしょう。
中野 そうだと思いますね。日本人だけでなく、地球上の人間はそうせざるを得ないと思います。これだけ地球が痛めつけられて、環境も劣化しているんですから。エネルギーをできるだけ消費しないように自然に暮らす。それしかないだろうと思いますね。ぼくなんか、冬はしょうがないから暖房をしているけれど、夏はクーラーを使わない。良寛は、「災難に遭う時は、災難に遭うが良く候。死ぬ時節には死ぬが良く候」といっていますが、暑いときは暑いほうがいいということですよ。それをしないから、日本人はだんだん惰弱になって、暑さ寒さに弱くなってしまった。大都会ではクーラーなしに暮らせないかもしれないが、そういう大都会を造ったのがそもそもいけないんだから。
それとね、コンピュータだとか携帯電話だとか、現代人はそれによって社会と自分がつながっているように思っているけれど、それは単なる情報にすぎないんです。ある週刊誌の特集で、ある外資系の企業で働いている女性が「わたしはヒマが一番嫌いだ」と言っている記事があった。常に緊張していないと気持ちが悪い。仕事が終ったあとも食事をしながら打ち合わせを続ける。寝る時間ももったいないくらいだという。最近、男性だけでなくこういう女性も増えてきました。そういう人は、つまり、自分自身と向き合いたくないんです。自分自身を見たくないから、仕事や情報に逃げている。これでは、本当に生きているとは言えない。結局、自分を見失っているわけです。
高橋 たしかに、現代人はゆったりとした時間を過ごすということを忘れていますね。そこに、いつも不安を抱えていて安心が得られない原因があるのではないでしょうか。
中野 結局、安心というのは、生まれてきたこの自分自身を完全肯定し、自分を生かすということだ思いますね。それは禅の極致でもあるでしょう。それはよそに向かって求めたのでは得られない。自分自身のなかに求めなければ得られないものだということを強調しておきたいですね。それが「安心」を得る道です。
横内 とても良いお話をたくさんありがとうございました。
(平成十四年十二月二十四日収録)