曹洞宗檀信徒必携・仏事、知ってるつもり
曹洞宗教えのすべて
第8回 「檀信徒のつとめ」
宮崎県・昌竜寺 霊元丈法
問 昔からの檀家なのですが、祖父母が主にお付き合いをしていて、家族は信者として何をすればいいのかが分かりません。どのようにすれば曹洞宗の信仰を身に付けられますか?
答 日本の仏教には他の仏教国と違った面がたくさんあります。もともと仏教はお釈迦さまの教えを守って生きる生活宗教ですから、僧はお釈迦様のかわりに人々に説教し、悩みや、恐れを取りのぞきます。また、善い生き方によって、永遠の苦しみから離れた浄土をめざしますので、原則として僧は葬儀にはタッチしません。ところが、日本には国家鎮護、怨霊鎮魂の祈祷宗教として受け入れられました。また、一般には死者慰霊の儀式で定着しましたから、坊さんが葬儀の主役になりました。さらに、江戸期の檀家制度により、一家がどこかの寺に属することとなり、信仰の形式化と固定化を生みました。これは、一家の長一人が代表しての信仰ですから、一家や一族がまとまり、宗教的な紛争も避けられたため、たいへん長く続いて現在にいたっています。しかし、戦後はその家長制も崩れ、核家族が誕生して、地域との繋がりも希薄になったのに、なかなか個々人の信仰への脱皮がうまくいっていません。そこで、ご質問のような疑問がおこってきます。曹洞宗は「お釈迦様の教えを日常に実践する宗旨」ですから、ぜひ個人の信仰を深めていただきたく、信者としての心構えをあげておきましょう。
一、悔いる (法要への参加)
仏教徒が一番大切にしなけらばならないことは「反省」です。人は完全ではありません。思わぬ一言が相手を傷つけ、ちょっとした行為が取り返しのつかない罪を生むことだってあります。ポケットの角にゴミがたまるように、いつとは知れず汚されていきます。また、この身にはつねに本能の欲が渦巻いています。人はだれでも、自分が一番かわいいのです。その上、食物として他の命を奪い、自分の種の繁栄のためには手段を選びません。これは人類の歴史そのものです。人生はきれいごとでは生きていけないのです。そこでお釈迦様は「さんげ(懺悔)」をなすべき一番にとりあげられました。仏教の懺悔はザンゲと違って、神(絶対者)に許しを乞うことではありません。自分の中のドロドロしたものを全部、仏様の前にさらけだしてまっさらになることです。人生には自分の過去を消しさる便利な消しゴムも、過ちをなかったことにしてくれる裁判官もいません。なぜなら、すべては自分の心に刻まれ、自分が背負っていかなければならない罪だからです。お寺へのお参りの基本は、まず仏様に帰依して自分を軽くすることです。お寺での法要はどんな法要でも必ず「身も心も仏の家に投げ入れる」と道元様のいわれる三拝から始まります。お寺の法要へできるだけ参加しましょう。
二、めざめる (坐禅のすすめ)
なぜ、こんなに豊かになったのに、毎日親子相食むようなむごたらしい事件が起こるのでしょう。一ついえることは、大戦で全てを失ってから、みんなで必死に働いてきました。その夢がことごとく実現した時、みな一挙に目的を失ってしまったのです。もう一つはお金があらゆる幸福を叶えてくれると錯覚したことでしょう。お金は目的を遂げる手段の一つにすぎません。だからお金で得た結果が心を満足させるとは限らないのです。お釈迦様は人を苦しめている根源を明らかにし、そこからの離脱法を示されました。それがお悟りです。その内容を喩話や例話で説明したのがお経です。それを実感するのが修行です。道元様はこの悟りに直結する究極の道として坐禅をすすめられました。なぜなら坐禅こそ、自己を確立する最高の修行としてお釈迦様が選ばれた行だからです。ナサの宇宙基地で宇宙酔い克服のために禅瞑想がなされています。上下の無い宇宙空間で、自己を確立するのは至難です。ちょうど満ち足りた日本人が自暴自棄に陥るのと同じです。坐禅はどっかと大宇宙を踏まえてゆるぎない自分を創ります。でも、身体が不自由だったり、時間がとれない方は、永平寺の宮崎禅師様がお勧めのように、毎朝、仏壇の前に姿勢を正して座り、真っすぐ線香をたてて祈り、一日を始めてください。これも立派な檀信徒の行(坐禅)であるとお示しです。めざめる(悟り)にはまず自己の確立が先決なのです。
三、勤める (お寺を護る)
バブルの崩壊とともに日本人から何かが欠落してしまいました。経済大国を目指している中で何かを失っていきました。そしてその何かが分からぬために、社会の混迷は止まる所を知りません。たぶん失ったものは感謝です。食物も着る物も、自分が生まれて生きているのも全て当たり前で、感謝に値するものは何一つなくなりました。先祖はもちろん両親さえ無用です。捨てたのは思いやりのようです。向こう三軒両隣は何より親しいおつきあいでしたが、今では隣室の老人がミイラになっても気が付きません。親孝行したくないのにいる親とうとまれ、行き届いた介護も植物状態では感謝のしようがありません。貧しくとも三世代同居のにぎやか家族は、豪華な3C付きになっても家族一緒に食事することもない淋しさです。思いやりとは他者の命を大切に思うことなのです。それは自分の命を大切にすることに繋がります。なぜなら、この世の中は網の目のような結びつきで支えられ、無数の縁で助けられているからです。それは過去にも広がります。生命が地球上に生まれて三十五億年、あなたの私の動物の植物の命は、切れたことのないDNAの繋がりとして存在しています。この奇跡に畏敬の念をもたなくなった人々は、情をなくしてしまっています。
急速に豊かになった家庭から、役に立たないものが次々に捨てられました。仏壇や神棚、そしてお年寄り。かくして日本人が一番大切にしてきた敬老や先祖崇拝というボランティアが消えさろうとしています。この世の浄土であるお寺も、人生の導師であるべき僧も、ともに葬儀や法事の歯車でしか機能しません。今こそ檀信徒の一人一人が、お寺を自分の心の拠り所として護っていくことが望まれます。三宝の一つ僧宝は坊さんだけではありません。サンガ(僧伽)といって、仏教を信じる仲間の集う処です。そこはみんなで仲良く手をとりあって護る聖域なのです。「なすべきことを潭々となす」事こそ安心の人生です。
(完)