読者からの質問に答える(1)
空、無我というのは どういう意味?
今号から「読者からの質問に答える」ぺージを設けました。
今回は第一回として、本誌の愛読者であり質問を寄せられた田中久丸さんにお出でいただき、曹洞宗総合研究センター副所長・田中良昭先生に答えていただきました。
左/田中久丸 さん
右/田中良昭 先生
『正法眼蔵』と『般若心経』
田中良昭 お寄せいただいた質問は空と無我ということですね。その話に入る前に、禅問答では質問のなかにこそ答えがあるといいます。そこでお伺いしたいのですが、田中久丸さんは、どうして空とか無我といった難しい仏教語を深く知りたいと思われたのですか?
田中久丸 私は今七十四歳になります。裁判所に勤めておりましたが、大病をしまして七年くらい前に辞めました。仏教にはその前から関心を持っておりまして、それは一つには、母親が熱心な仏教信者だったので、四つ五つのころからお経を聞かされていたことがあると思います。その後、東京に出て裁判所で働きながら夜間の大学を出たのですが、そのころ亀井勝一郎の『親鸞(しんらん)』とかを読んで、『歎異抄(たんにしょう)』に親しむようになりました。それが、仏教書を読み始めた最初でした。その後、道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』に興味を持つようになって、いろんな方が書かれた『正法眼蔵』の幾種類かの解説本を読みました。紀野一義先生のカセットテープによる解説を十年以上も聞き、西嶋和夫先生の著書も読んでいます。ところが、それでもよく分からないんですよ。今も分からないままに、何とか分かろうという思いで無我夢中で読んでいるんです。
田中良昭 私の専門は曹洞宗の宗学ではなくて、中国の禅宗の歴史です。従って『正法眼蔵』はそんなに本格的に読んだということがありません。田中久丸さんは、そうやってずっと『正法眼蔵』を読んでこられて、その中で、道元禅師が一番おっしゃりたいことは何だと思われましたか?
田中久丸 いや、それがよく分からないんです。「身心脱落(しんじんだつらく)」とか、「修証一等(しゅしょういっとう)」「只管打坐(しかんたざ)」や、「仏道を習ふというは、自己を習ふなり、自己を習ふというは、自己を忘るるなり」という言葉を思い出しますが、根本的には「悟り」ということについて語っておられるのではないでしょうか。
田中良昭 よく言われるのは、『正法眼蔵』は仏の立場、悟りの立場から説かれたものだから、われわれ凡夫がいくら頭で理解しようとしてもそれはできないということですね。そこが非常に難しい。
田中久丸 私もそう思います。その難しいところに突き当たってしまったものですから、曹洞宗宗務庁主催の坐禅会や駒澤大学の公開講座などにも足を運びました。でも、よく分からない。それで『正法眼蔵』を少し離れて、仏教の入門書から勉強し直そうと思って『般若心経』の勉強を始めたんです。ところが、それも結局は分かったのか分からないのか、それさえ分からないという奇妙なことになってしまいました。今でも、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりしながら、私の生涯ももうそう長くはないですから、何としても取り付いて一所懸命にやる以外にないという思いでやっています。
「空」はお釈迦様本来の教え
田中良昭 いやあ、田中さんのような方は一般には少ないですね。私ども僧侶は、お檀家さんに仏教を分かりやすく説かなければいけないのですが、多くの檀家さんは菩提寺の和尚さんに先祖供養をしてもらって、二言三言、仏教の話を聞けばそれで満足なんですね。それ以上、仏教書を買って読もうという人は少ない。
田中久丸 『般若心経』の中には空ということばが何度も出てきます。そこで説かれている「すべてを空ずる」ということが、よく分からないんです。
田中良昭 『般若心経』がインドで作られたのは、お釈迦様が亡くなられて三百年か四百年経ったころ、西暦紀元前後のことです。お釈迦様が亡くなった後、教えが伝えられていく過程で教えの解釈をめぐっていろいろな対立が起こり、二十の部派に分裂します。その中で、お釈迦様の教えがまちがって受け取られ、お釈迦様以前からインドに浸透していたバラモン教の考え方に逆戻りしてしまったということがあります。バラモン教の考え方というのは、あらゆる存在や現象は梵とか我という目に見えない永遠に変わることのない実体によって引き起こされるのだと言います。ところが、お釈迦様はこれに真っ向から反対して、あらゆるものは移り変わっており、固定した実体としてはないという、「諸行無常」「諸法無我」を主張し、すべてのものは因縁によって生滅するという「縁起(えんぎ)」を説かれたわけです。ですから、そうしたお釈迦様の教えを正しく伝え直そうということで、それをひと言でどう表現したらいいかと考えて新たに採用されたのが般若経典で説かれた「空」ということばなんです。その語源は、古代インドの聖典語であるサンスクリット語では、スーニャもしくはスーニャターといい、空虚とか、空っぽを意味しています。ご存知のとおり、数学の零(ゼロ)という概念は、インド人が考え出したと言われていますが、「空」はそれと同じ意味合いを持っています。
今をひたすらに生きる仏教の生き方
田中久丸 『般若心経』には「諸法空相」、すべてのものは「空」だとあります。そうすると、われわれの存在自体も空だということですね。それは、日々を生きている私たちの生活とどんな関わりがあるのでしょうか。
田中良昭 お釈迦様は、この世に存在するすべてのものが、 どういうあり方をしているかということを示されました。それは、先に述べた通り無常であり、無我であり、縁起だということです。人間も例外ではありません。自分という実体はない。さまざまな条件によって生かされているのであって、それも時々刻々移り変わっている。そういうふうに自分のあり方を見据えること、それが一番大事だということではないでしょうか。人間はどうしても「常」(無常の反対)を求めます。変わりたくないんですね。年は取りたくない、いつまでも若く健康でいたいと思う。しかし、人は誰でも老い病み死んで行く。そしてそれは、他人事ではなく自分自身のことだと自覚することが大事ではないでしょうか。
田中久丸 諸行無常ですから、生きているということは同時に死につつあるということなんですね。それを感得する、頭で理解するのではなく身体で知ることが大切だということでしょうか。
田中良昭 そうですね。人間は瞬間瞬間に生死を繰り返している。私たちはそれをいやがって、どこかに安易な救いの場があるのではないかと探し求めてしまう。しかしそれは虚しい努力に過ぎない。禅の教えでは、あるがままをそのまま受け入れなさいという。しかし人間はその教えに逆らって自分中心の欲望にとらわれ、ふりまわされて現実から逃避しようとする。そこにさらに悩みが積み重なっていくわけです。そうではなく、とらわれを離れた空の心になって、ひたすら今ここを大切に生きること。それが仏教の基本ではないでしょうか。
それともう一つ加えさせていただければ、お釈迦様の説かれた「縁起」という考え方こそ、大乗仏教の根幹を成す「空」の思想だということです。すべてのものは、お互いに影響しあって存在しているのですから、もし自分が幸せでありたいと思ったら、ほかの人も幸せでなければならない。だからまず、ほかの人の幸せのために尽くさなければいけない。それが、そのまま自分の幸せにつながっているのだというのが大乗仏教の基本的な考えかたです。
田中久丸 『正法眼蔵』を要約した『修証義(しゅしょうぎ)』のなかにも、「利行は一法なり、普く自佗を利する」とか「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり」ということばがありましたね。
田中良昭 「空」というようなことばを理屈で解釈しようとすると埒があきません。禅では、空の思想を「放下著(ほうげじゃく)」(とらわれを捨てろ)と実践的に説きますが、それをどう日常生活に生かしていくか、ということが大事なんです。
田中久丸 はい、少し分かってきました。なにか心の霧が晴れたような気持ちがします。私も長年仏教の勉強をしてきて、今ここを大切に一所懸命生きなければといけないという思いを強く持つようになっています。本当にありがとうございました。
(平成十五年十月二十一日収録)